いじめ研究の第一人者が問う、日本の学校が染まる「全体主義」の核心

だから「いじめ自殺」が起きてしまった
内藤 朝雄 プロフィール

群れの「やさしさ」は恐ろしい

ここまで読み進めた読者は、次の事例で教頭が本当に言いたかったことを理解できるようになっているはずだ。試していただきたい。

【事例2:なかよくなってほしかった】
 ある小学校で、一年生女児(6歳)が、露骨で執拗なしかたでいじめられていた。担任はそれを放置した。被害児は夜中に叫び声をあげるようになり、医師からは睡眠時驚愕症と診断された。
 その後、相談した教頭が熱心に介入し、露骨ないじめはかげをひそめた。しかし、無視や顔そむけ、ひそひそ話、他の子から孤立させようとするコミュニケーション操作、などは続いた。
 クラス替えまで被害児は加害児と関わらないようにしていた。
 クラス替えの前に母親が「こういう(いじわるな)人もいるんだ」と理解して今は騒がず受け流すようにしている」と教頭に伝えると、教頭は「残念です。こんな人もいる、と諦めてしまうのでなく、仲良くなってほしかった。ここの学区の子どもたちは優しい子が多いはずなんです」と言った。(母親へのインタビュー)
 

教頭は、6歳児○○ちゃんが障害を負うほど虐待されたことではなく、自分の身を守ろうと<クラスのともだち=加害児>から距離を取ったことを「残念」と言っている。

現に生きているかけがえのない○○ちゃんが苦しかったろう、つらかったろうということは、教頭の目に入らない。それよりも、「ともにかかわりあい、まじわりあい、そだちあう」大いなる全体(集合的生命としての学校)が大切だ。

一人ひとりの人間は、こころとからだの深いところから<みんななかよし>のものになって、大いなる学校生命が生き生きと躍動するための材料だ。

「学校らしい」共生を離れた個人それ自体は鴻毛(羽毛)のように軽い。個人の命や健康よりも、みんながこころとからだの深いところからクラスのものになって共生する、全体のかたちの方が尊い。

この教育的に美しい群れのかたち(いわば教育の国体)は、個人が勝手に「ともだち」から距離をとることによって、そこなわれてしまう。

〔PHOTO〕iStock

6歳児が睡眠時驚愕症になるほど校内で虐待され続けたことよりも、個人(被害者)が、ともだち(加害者)と「なかよく」融け合う関係を拒否することの方が、学校のコスモロジーのなかでは残念なことだ。

だから教頭は、母親に面と向かって言ったのだ。「残念です」と。

大いなる全体のための材料の分際で、個人が勝手に「ともだち」と距離をとるなど、ありえないことだ。そんなことをしたら、大いなる全体が壊れてしまうではないか。たとえ死んでも心が壊れても、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、みんなで・なかよし・おともだちをしなければダメじゃないですか。お母さん、こんな自分勝手をされては困りますよ。ほんとうに「残念です」。

これが、教頭が本当に言いたかったことである(ただし、自分がやっていることを知る勇気はないであろう)。

教頭は「やさしさ」なるものを大切な価値とみなしている。しかし、個人に対しては、ぞっとするほどやさしくない。

精神に変調をきたすほど虐待された6歳児が、身をすくめ、襲いかかり痛めつける加害者を避けるのは、ちいさな生き物としてのけなげな自己保存反応だ。これをもって、教頭は「残念です」と言う。

脳が教育という阿片に浸されると、ここまで冷酷になることができるという見本といってもよい。

それと同時に、この同じ人物は、群れた子どもたちが感情と感情を響きあわせ、その渦の中から大いなる全体(集合的生命としての「学校らしい」学校)を生み出す、感動材料としての「やさしさ」を何よりも大切にする。

この教頭の言動は、一人ひとりを大切にするやさしさと、個を超えた大いなる<みんななかよし>を生み出す感動材料としての「やさしさ」のちがいを、くっきり浮き上がらせる。

学校の集団生活では、個のやさしさは群の「やさしさ」に変じ、個の食事は群れの給食儀式になり、個の声や笑いや涙は群の声や笑いや涙に置き換えられていく。

群れの「やさしさ」は個のやさしさとは異なり、集団心理・利害権力政治の材料になりやすい。