いじめ研究の第一人者が問う、日本の学校が染まる「全体主義」の核心

だから「いじめ自殺」が起きてしまった
内藤 朝雄 プロフィール

日本社会にありふれた教育ポルノ

それだけではない。学校が精神医学を染め上げる形から、逆に、学校のなかに濃縮した姿で現れる全体主義の本質を明らかにすることができる。

全体主義は、ただ外形的な服従を要求するだけではない。生活環境を集団化して涙や叫びや歌や笑いなどの共振密度を高め、一人ひとりが自分を裂け開く<すなおさ>をどこまでも要求する。

ほんとうに心を開いておまえそのものが流れ出ているかどうか、といった自己裂開への執拗なこだわりが、全体主義を単なる独裁から分かつ、全体主義の本質である。

「トイレに閉じこめられたり、仲間はずれにされた時に、泣けばよいのだけれども、『私は泣かない、それで、皆から同情されないと思う』」のは、泣くことがクラスの集団生活で要求される「すなお」な自己裂開であり、個人が勝手に距離を取ることは加害行為よりも「悪い」ことであるからだ。

ここでは、自他共振の擦りあいのうちから、おまえがおまえである底のところから<おれのもの>になるべし――それをあかすがゆえに、しばしば身体開口部が濡れているかどうかにこだわる――という、ポルノ的な裂開規範(裂け開くべし)をみとめることができる。

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世にありふれた性ポルノと、同じく世にありふれた教育ポルノを比較してみよう。

すると、性ポルノにおける<おれのもの>の<おれ>の位置に、教育ポルノの<クラスのみんなのまじわり>が位置づけられているのがわかる。

学校の集団生活では、おまえがおまえである底のところから自発的に<クラスのみんなのまじわり>のものになるべし。

おまえは、この<まじわり>のものになったあかしとして、涙に濡れて身を開かなければならない。自己裂開をかたどり受肉する祭具として「すなお」に濡れるべしと要求される身体の開口部は、性器から眼球に代わる。

もちろん、全体主義が戦争を要求するとき、人々に濡れるべしと執拗に要求するのは血が吹き出す傷口だ。またそれは、がんばったと拍手で賞賛される、危険な組み体操での骨折であり、カミカゼ自爆攻撃で飛び散る散華の肉片である。こういった骨も肉も、全体主義において濡れて輝いている。

これについては、「人格を壊して遊ぶ…日本で『いじめ自殺』がなくならない根深い構造」をもう一度ごらんいただきたい。また、カミカゼ賛美に代表される日本の全体主義については、「世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる」を参照されたい。

 

全体主義の核心部には、さまざまな領域に共通のポルノ性=自己裂開規範(裂け開くべし)がある。

この「裂け開くべし」と命じる教育ポルノの秩序のなかで、E子は目から涙を出して泣かねばならない。泣かないE子はクラスの仲間を寄せ付けない。そのような個人的人格は、学校の共同生活ではゆるされない。

日本の学校にみられる極端な集団主義教育のどこが人間にとって有害なのか。それは、距離なしで魂を擦りあい開きあう共生が、魂に無理やり突き込まれることである。

上記典型例が示す児童青年精神医学は、このような魂のレイプが痛いのではなく、きもちよくなるように治療する。心を閉ざすのではなく、泣いて同情されてクラスにきもちよく抱かれるように援助する。ときには脳に作用する薬物を使ってさえ、学校を人間に適応させるのではなく、人間のしくみを学校に適応させようとする。

読者は意外な論理を示されて驚かれたかもしれない。

しかし、上で説明したしくみを頭に入れておくと、これまで漠然と違和感を抱くだけで理解できなかったことを、はっきり理解できるようになる。