20世紀のメディアの主役となる岩波茂雄と正力松太郎「青春の日々」

【新連載】大衆は神である②
魚住 昭 プロフィール

四高、東京帝大で活躍した学生柔道界の雄

夏目金之助が東京帝大を去って半年後の明治40年(1907)9月、正力松太郎(しょうりきまつたろう)が東京帝大法科大学の独法科に入学した。正力はのちに警視庁の官房主事を経て読売新聞の社主となる男だ。岩波とは別の意味で、野間清治の強力なライバルとなり、読売VS.講談社の長期抗争を繰り広げる。

戦後、正力本人に取材して書かれた『伝記 正力松太郎』(御手洗辰雄〈みたらいたつお〉著・大日本雄弁会講談社刊)によると、正力は明治18年(1885)、富山県・大門町(だいもんまち)に生まれた。

大門町は豪雪地帯のうえ、一級河川・庄川(しょうかわ)があらゆる川の水を集めて、海に落ちようとする約三里の上流、庄川の水のいちばん膨れ上がったところにある。昔から洪水のたびに全村洗い流された例は数知れず、幾度も川筋がこの付近で変わったという難所である。そのため土木工事が発達し、正力家も祖父・庄助(しょうすけ)の代から専門の土建請負業となった。

 

庄助は努力家で気性が激しく、また創意工夫の豊かな人だった。彼は藩命を受けて庄川にかかった大橋の復旧工事に取りかかったが、激流であり、橋の古杭を抜く作業でけが人が続出して非常な難渋に陥った。古杭抜きが簡単にできれば後の工事は楽になる。

そこで、庄助が発明したのが鉄の輪でつくった杭抜きの道具だ。これで工事は大いにはかどったので、奉行はこれを賞したうえ、その道具を正力輪と名づけ、正力の姓と帯刀を許した。正力家が請負人として大をなしたのはそれからである。

庄助の後を継いだ庄次郎(しょうじろう)の二男が松太郎だ。彼が生まれたとき、立山(たてやま)連峰の雪解け水は洪水となって各河川を氾濫させ、父の庄次郎は現場に忙しく留守だった。

お七夜にやっと帰ってきた父は、庭から庄川の土手一面に生い茂る老松(おいまつ)を見て「松がいい、松がいい。千年も繁って人の役に立つ松がいい」といって松太郎と名づけた。

5歳の春、松太郎は姉とふたり、いつものように庄川の河原で遊んでいた。すると、突然、雪解け水が高波となって押し寄せてきた。姉は走って土手にたどり着いたが、松太郎は速い流れに足をすくわれた。

姉の知らせで家中はもちろん付近の住民総出で探した結果、現場近くの渦巻きの底に沈んでいるのが見つかった。抱え上げたが、すでに息が止まって冷たくなっている。誰もみな死んだものと諦めたなかで母親だけが諦めない。「死なせはせぬ。死なせはせぬ」と叫びながら、冷たくなった松太郎を抱えて医者に駆けつけ、水を吐かせて息を吹き返させた。

正力は晩年にいたるまで「母の愛情、それだけが僕の幼い命を取りとめてくれたのだ。たびたび、命をかけた生活ではあったが、このとき僕の一生の運命が決まったようなものだ」と言って、眼をしばたたかせたという。

正力は身体があまり丈夫な質ではなかった。高等小学校時代はトラホームを患って毎日病院に通い、痩せてもいたので、両親は「本を読むことはない。丈夫になれ」と相撲や船漕ぎ、川遊びなどを奨励した。おかげで身体のほうは見違えるほど丈夫になった。

四年の高等小学校を終えて高岡中学に入った。家から中学まで二里近くあるのに、雨の日も風の日も地下足袋をはいて通った。高岡中学では水泳や剣道は誰よりも熱心だったが、学課のほうはよくなかった。中学卒業時の成績はビリに近かった。

それでもなんとか金沢の第四高等学校に入り、柔道部員として活躍した。なかでも明治39年4月、京都であった三高VS.四高の各種競技大会での活躍には誰もが目をみはった。

第一日目の野球で敗れた四高は、第二日の庭球、第三日の剣道でも負けた。残すところは柔道のみ。敵の大将は全国に名を知られた柔道三段の猛者(もさ)で、勝てる見込みはなかった。ところが、試合になると、四高の中堅が大奮闘して7人を倒したので三高は早くも猛者の大将が出て来た。

四高はまだ6人を残しているから、相手の大将をとにかく疲れさせようと食い下がったが、いとも簡単に4人が倒されてしまった。そこへ5人目として登場したのが正力である。正力は無段で無名だったから、誰も勝ちを期待していない。

だが、正力は相手のスキを突いた。一礼して立ち上がったところでいきなり大技の投げを仕掛けた。相手の体は宙を一回転してドタリと落ちた。すかさず正力は相手のエリを絞め上げ、わずか一分間で勝負を決めた。

嵐のような歓声と拍手がわいた。金沢に凱旋した四高柔道部は地元民の大歓迎を受けた。正力は一躍ヒーローとなり、地元紙は社説でその力闘を讃えた。

この体験が正力の一生を左右したのかもしれない。彼は東京帝大に進んでも、柔道に打ち込んだ。学校は休んでも講道館(こうどうかん)は休まない。講道館では柔道の創始者・嘉納治五郎(かのうじごろう)や「柔道の神さま」といわれた三船久蔵(みふねきゅうぞう)らの教えを受けた。やがて、正力は柔道の極意を禅に求めるようになり、臨済宗の寺で修行に励んだ。