20世紀のメディアの主役となる岩波茂雄と正力松太郎「青春の日々」

【新連載】大衆は神である②
魚住 昭 プロフィール

新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である

滝田が中央公論社に正式入社した翌年の明治38年(1905)初め、夏目の処女作「吾輩は猫である」の連載が『ホトヽギス』ではじまった。滝田はそれを二、三回分読んだあと、駒込千駄木町(こまごめせんだぎちょう)の夏目の家を訪ね、『中央公論』への執筆を依頼した。

『中央公論社の八十年』によると、滝田がいったん惚れ込んだ作家に対する熱中ぶりは独特のもので、彼は原稿を受け取ると、すぐその本人の前で読み、気に入った箇所があると、声を張りあげて朗誦してみせて、感激したという。自作の他に対する影響力に敏感で、褒められることを何より喜ぶ文学者気質をたくみにつかんだやり方だった。

夏目は当初『ホトヽギス』以外に書くつもりはなかったが、帝大の教え子でもあった滝田の熱意にほだされ、『中央公論』に「一夜」を書いた。さらに滝田の押しと粘りに負け「薤露行(かいろこう)」「二百十日」と『中央公論』につづけて作品を発表した。これをきっかけに『中央公論』は世の注目を浴びるようになり、明治40年(1907)新年号で発行部数1万部を突破した。

 

夏目が東京朝日新聞社の主筆・池辺三山(いけべさんざん)の招請を受け、朝日新聞への入社を決めたのは、それからまもない明治40年3月のことである。同じころ、東京帝大からも英文学担任の教授に推すという内示があったが、夏目はそれを断わり、一切の教職から身を引いた。

帝大教授の椅子を夏目は惜しげもなく捨てた。彼は、それまで立身出世の最高の到達点のひとつとされていたポストに何の魅力も感じていなかった。明治維新以来、日本の資本主義の原動力だった立身出世主義の内実は変容を余儀なくされつつあったのである。

夏目は朝日に寄せた「入社の辞」でこう述べている。

〈大学を辞して朝日新聞に這入(はい)つたら逢ふ人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程(さほど)に不思議な現象とは思はなかつた(中略)新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。只個人として営業してゐるのと、御上(おかみ)で御営業になるのとの差丈(だ)けである(中略)新聞社の方では教師としてかせぐ事を禁じられた。其代り米塩(べいえん)の資に窮せぬ位の給料をくれる。食つてさへ行かれゝば何を苦しんでザツトのイツトのを振り廻す必要があらう。やめるなと云つてもやめて仕舞ふ。休(や)めた翌日から急に脊中が軽くなつて、肺臓に未曽有の多量な空気が這入つて来た〉

煩悶のすえ学歴エリートの軌道からはずれようとしていた滝田にとって、これほど痛快な文章はなかったろう。滝田は、毎週木曜、夏目宅に門人たちが集まる木曜会に顔を出し、その常連になった。木曜会では夏目を中心に文学論に花が咲いた。滝田が自説を主張するとき、生来の早口がせきを切ったようになり、そのうえ東北なまりが出るので、相手に聞き取れないことがよくあった。

しかし滝田はそんなことにはおかまいなしに、滔々(とうとう)と弁じまくり、顔面を紅潮させながら相手を圧伏しないではやまない気迫を示した(『中央公論社の八十年』)という。

夏目が「虞美人草(ぐびじんそう)」「三四郎」「それから」等の朝日新聞連載で文壇の頂点をきわめるのと軌を一にするように、『中央公論』の声価はますます高まっていった。

気難しいことで知られた漱石だが、「樗陰とはウマがあった」と、夏目鏡子夫人は述懐している

滝田は才能あふれる新人作家を見つけ、育てた。谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)や芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)をはじめ、大正・昭和の文壇で活躍した作家で滝田の世話にならなかった者はいないといってもいいだろう。

「樗陰の人力車」という文壇の名物話がある。滝田は原稿依頼に作家を訪問するとき、定紋(じょうもん)入りの黒い人力車に乗って出かけた。無名作家にとって、その人力車が門にとまることは幸運の訪れたしるしであり、既成作家にとっても自分の存在が忘れられていないことの確証となった。

まだ無名だった菊池寛(きくちかん)が牛込榎町(うしごめえのきちょう)の借家に住んでいたとき、外出先から帰ってくると、狭い路地の入口にそれらしき人力車がとまっていた。

「おや、自分の家へ来ているのかな、だとすると噂に聞く滝田氏の人力車かな」と胸を躍らせて入ってみると、中央公論から来ていたことは来ていたが、滝田の部下の編集者だったと、ちょっぴり残念そうに漏らしている。

芥川龍之介(右)と菊池寛(大正9年、芥川27歳、菊池31歳)

その菊池の盟友で、夏目の晩年の弟子である芥川は、滝田は「作家を煽動して小説や戯曲を書かせることには独特の妙を具えていた」と言い、「僕なども始終滝田君に僕の作品を褒められたり、或は又苦心の余になった先輩の作品を見せられたり、いろいろ鞭撻を受けた為にいつの間にかざっと百ばかりの短編小説を書いてしまった」と述べている。