私が生まれた地球には、私の属する場所がない。ロヒンギャ青年の証言

「無国籍」であるということ
望月 優大 プロフィール

食べたいものを食べる、行きたいところに行く、働きたいように働く、学びたいように学ぶ。そうした機会、そうした自由の根底にあるべき足場を、ロヒンギャの人たちは奪われている。

昨年8月に奪われたのではない。ずっと奪われてきたのだ。そして今も、これからも、そうなのである。目をつぶりたくなるような現実だ。でも、それが現実なのである。

(C)Arnaud Finistre / MDM

今回の危機では70万人近くのロヒンギャが「難民化」したと言われる。国境を渡った人々の数を数えればそうなるのだろう。

でも、国境を越えられなかった人々もいるのだ。同じ危機に直面し、同じ不自由を経験しながら今もミャンマーに取り残された青年の家族。彼らは果たして「難民」ではないのだろうか。

人権はHuman Rights、人間の権利である。生まれた場所やいかなる属性にも関係なく、「ただ人間として生まれた」という事実のみに基づき全員が持っているべきとされる権利である。

しかし、青年のように国家を奪われた者たち、無国籍(stateless)状態に陥った人々の存在は、「ただ人間であるだけの人間には、人間の権利は与えられない」ということを痛烈に証明している。

ミャンマーに戻っても市民権はない。バングラデシュでは難民キャンプから出ることもできない。もちろん、国境にたどり着くことも、空港から飛行機に乗ることもできない。どこにも行くことはできない。

そして、こうした宙吊りの空間が機能することが、彼ら難民が日本のような先進国に到達できないことの前提条件となっている。そのことを理解すると、人権とは所詮、偶然と利己心に支配された特権、既得権であるようにすら思えてくる。

地球の全表面を覆い尽くした国民国家システムにおいて、ある国家から締め出された人間は地球から締め出されたのと同じである。再びアーレントの言葉を引けば、「歴史的に例がないのは故郷を失ったことではなく、新たな故郷を見出せないこと」なのだ(同310頁)。

(C)Kazuo Koishi

地球の一部に止むを得ず設けられた非-故郷的かつ非-地球的な場所こそが難民キャンプである。「キャンプ」と片仮名で濁すからわからなくなるのだ。「収容所」と直截的に訳することで突如として突きつけられる現実がある。

繰り返すが、青年の言葉からも分かる通り、彼はミャンマーにいた時から収容所然とした暮らしを強いられていた。国籍とともに移動、教育、仕事といった様々な自由への権利が奪われていたのだから。

キャンプと呼ばれている場所だけが収容所なのではない。故郷を奪われた者たちが締め出され、囲い込まれる場所は常に収容所なのだ。天井があろうと無かろうと。

無権利状態からの脱出、収容所からの脱出は、もと来た国(ミャンマー)、今いる国(バングラデシュ)、それ以外の国のいずれかが、彼らを人間として引き受けることによってのみ達成される。

国家なき人権、無国籍の人権など無い。地球上のどこかの国家が彼を人間として受け入れる以外、青年のささやかな望みが叶えられる方途は今のところ見つかっていないのだ。

(C)Arnaud Finistre / MDM