日本人がいつのまにか忘れてしまった「神社」の意味とは?

あなたを駆動する「物語」について⑩
赤坂 真理 プロフィール

バリにはそういうことを求めて行ったわけではない。瞑想と関係した仲間と行き、現地のコテコテのシャーマニズム(ブラックマジックなども含めた)をよく知るガイドに案内してもらったけれど、シャーマニズムツアーとかエコロジーツアーとかで行ったわけではない。

ただ、バリはシャーマニズムの土地でもあるから、「バリに行くので、何か面白い視点があったらください」と、出かける前に安藤礼二さんに訊いた。

安藤さんは、自分はバリ島には行ったことがないのだが、と断ったうえで「密教的な要素があると聞いている」と教えてくれた。この視点は、意外であり、補助線としてとても役に立った。

日本では、言い伝えの意味が消えているもの、名前だけになって内実が伝わらなくなっているものの、元の姿があったような気がする。

 

たとえば、神社の意味を、バリで体感するとは思わなかった。

神社は、鳥居ありきではなく御嶽(うたき=祭祀場)ありきであると以前に聞いたことがあった。後から仏教が入ってきたときに、寺を建てられてしまわないように、鳥居を造って境界を示したのだと。

バリには御嶽の雰囲気がまだ生きていて、しかも聖なる場所と日常とを隣接させている。そして聖なる場所とその境界とには敬意を払い、祠や道路に供え物や儀礼を欠かさない。近隣のすべての人が、そのように場所を護っている。

これを「バリ・ヒンドゥ」と宗教的なカテゴリーでは言うけれど、ヒンドゥというよりは、精霊に仕えるアニミズムであるように思う。

神社とは、土地のエネルギー的な要所を、侵されないように守るためのものであることが、そしてそうすることで神社がより広域の土地や人を守るものであることが、バリに来てやっと体感できた。

日本では、そういうことはわかりにくくなっている。

神社はあからさまに神社であり、多くはある家族の家業として継がれ、代替わりするだけで雰囲気や造りががらっと変えられることも少なくない。駐車場に貸したりもするので、気の流れも変わってしまう。

バリではそういう場所を英語でテンプル(寺院)と呼ぶが、つくりが、寺というよりは神社に似ていると感じた。茅葺きで。質素で。

神社とは、御嶽である。そこに入るとき、精進潔斎して、身を清めて行く。祈る。人々が日常的にそういう時を持つ。

天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ました

と、今上天皇が、国民に向けたダイレクト・メッセージで言ったことを、わたしは思い出していた。「天皇の務めは、祈ること」。なんて凄いことを言った人なんだろうと。

だったら国民は、祈っているだろうか?

(つづく)