日本人がいつのまにか忘れてしまった「神社」の意味とは?

あなたを駆動する「物語」について⑩
赤坂 真理 プロフィール

消えかかっているルーツ

金氏は、滅びゆく満洲のシャーマンの映画を撮っていた。

今この地球上に、満州語を話せる人は20人くらいしかいない。20人。全世界で。それが彼の、自分でも知らなかった――日本に来るまで満洲族で在ることを知らなかった――本当の母語を話せる人口なのだ。

金がとりわけ心を痛めるのは、総人口の現象というより、満洲語が消えかかっていることである。

満洲がシャーマニズム(呪術、祭祀)の土地であるなら、言語は決定的な位置をそこに占めているはずだ。

いや、声が、あるヴァイブレーションとして発されることでこの世界に決定的な影響力を及ぼすという、言語そのものの原初的なかたちというものが、その言語であったにちがいない。

そこでは言語と祈りはひとつであり、形なきものと形あるものもまた、ひとつだったのだ。だとしたら、満洲語が消えるのは、地球上から、「言語の誕生」というものへのヒントがひとつ、消えることであるにちがいない。

知ろうとしたときには消えかかっているルーツ。あるいは、消されているルーツ。

金のように極端な少数民族でなくても、日本人としてわたしはそのことを切実に感じてしまった。

満洲のシャーマンの歌とビートを聴いて感じたのは、まず、日本の伝統音楽からはある時点で激しいビートが消されたのだろうということだった。

なぜかははっきりわからない。が、そう感じた。

 

日本もまたシャーマニズムの文化を持つ国であるなら――繰り返すけれど、そうでなければ、なぜ、祭祀王が今でも存在する?――憑依と脱魂の技術として、激しいビートは音楽に絶対にあったはずだ。

神話を考えてみても、アメノウズメが天岩戸の前でストリップ的な扇情的な踊りをして神々にばかうけだったとき、それが今の能楽みたいな幽玄な音楽であったとでも?

芸能はいろいろなことを教えてくれる。芸能こそが、古代からのメディアだからだ。

聴いているうちに、いろいろなことがおのずとわかってきた。中でも衝撃的な認識は、満洲≒清朝とは、「中国ではない」ということだ。そのビートも、楽器も、「中国」のものではなかった。

もちろん、清国が漢民族の国でなかったことは頭ではわかっていた、が、それは、「モンゴルの後継国家」と言ったほうが正しい。

「中国」というのは、あの土地を占めたいろいろな人を、中華人民共和国ができてから、あとづけでまとめた名称なのだと思う。

バリ島でわかった神社の意味

ゴールデンウィークに、バリ島に行った。

ゴールデンウィークと言えば、先代の天皇の置き土産である旧天皇誕生日と、1947年に日本国憲法が施行されたことを記念する憲法記念日に挟まれた、いかにも昭和的な日々を、戦後の平和の時代に日本人が連休化したものだ。

が、そんなときに、バリに行って、わたしは天皇というもののことを考えていた。特に、今上天皇とその父、昭和天皇のことを、そして「天皇というもの」のことと、「日本」というもののことを。

果たして、かの地でわたしが幻視したのも、たどるよすがが消えている日本のルーツだったように思う。バリに行って、そんなことを感じるとは思わなかった。