『池の水ぜんぶ抜く』人気の理由 。なぜこんなに心地よいのか

攘夷・勧善懲悪・神様の気分…
堀井 憲一郎 プロフィール

神様の気分を味わえる

また、もうひとつ付け加えるなら、最初にも述べた「自然への干渉」という映像の力も強く、それが魅力になっている。

まあ、掻い掘りする池や濠というのは、ほんとうの天然自然の池ではなく、人工のもの(もともと自然にあったとしても、人の手を加えたもの)が多いわけだが、水を湛えていて、中に生物が多く生息しているから、やはり自然存在に近い。

その「自然」を人間の力によってより善きものへと変えている、そのさまを映像で見せるというところが強い力を持っている。

人の力によって自然を正している気分になれて、とても心地いいですね。

自然よりも上位に私たちがいて、自然をより善きものにしているようで、気持ちいい。神様の代わりをやっているようで、心地いい。

攘夷も、勧善懲悪も、神の代わりも、すべて「上に立てる」から心地いいのだ。

どうも2010年代の思想は「上に立ちたい」というマウンティングの心情がより強く出ているようにおもう。それはインターネットによって支えられ、より「原理主義的な動き」を生み出しているようだ。この「掻い掘り」が、「もともとの日本の姿」を求め原理主義に流れてしまうのも、しかたのないことなのだろう。

こういう点で『池の水ぜんぶ抜く』はきわめてすぐれた番組だとおもう。

 

ただこれが“善行”として評価されるとすると、そこには違和感がある。

この番組はただ「おもしろい」のであって、「いいことやっている」わけではない。そもそも、人気があるから続くのであって、善いことかどうかは、どうでもいい。つまり、人気が低下すれば(いつか必ず低下する)この大掛かりな作業も終わる。

そこはあまり勘違いしないほうがいい。

素朴なナショナリズム

「在来種を守り、外来種を排除する行為」はべつに善行ではない。

それは落ち着いて考えればわかるはずである。少なくとも「誰が見ても問題なく正しい行為」ではない。観念的にクリーンな世界を作ろうという作業でしかなく、それは「気持ちのいい作業」でしかない。

みんなが何となくわかっているはずのことを、あえて言葉にしておく。

外来種の除去(もしくは、ある種の生物の排除)が行われるのは、本来は、自分たちの生活を守るため、のものである。人類の生存の可能性を伸ばすため、そういうことをする。また、外来種を積極的に導入することもあるが、それも自分たちの生活のためである。

生きていくために行っている。

それ以外の排除(生活にはあまり関わりのない外来種の排除)は、一種の趣味と言える。つまり、欲望を満たすためのものであり、快楽にすぎない。

たとえば、食料にするための狩りではなく、「趣味としての狩猟」というものがある。べつだん善行ではない。しかし悪行と決めつけるわけにもいかない。それを是とするか非とするかは各個人、ないしはそれぞれの共同体で決めてもらうしかない。

「やみくもな外来種の排除」はそれにあたる、と私はおもう。

生活にかかわりのない外来種が繁栄していようと、われわれサピエンスの生存とは関係ないのなら、放置しておけばいい。生きていくのに精一杯の人は、そうするだろう。

しかし、「外来種の繁殖によって在来種が圧迫されている、絶滅しそうである」と聞くと、何かしらの危機感を感じてしまう。外来種を排除したくなる。そして実際に排除行動に出たりする。『池の水ぜんぶ抜く』のある部分は、これである。

これは「在来種だから仲間であり、外来種は敵とみなす」という厳しい思想に基づいているようであり、「日本は日本のものだけで作られていてほしい」という願いが支えになっているようなものである。

なかなか興味深い試行だが、趣味の行動である。

ただし各国政府が各国で後押ししているタイプの、趣味の行動である。

本来は、あまり国を挙げてやるようなことではないだろう。しかし国民の不安(排除欲望)を無視するわけにもいかず、各国も対応している。しかし、目的は欲望の充足で、つまり快感のためで、それでいて狭隘なナショナリズムを刺激する行為である。できるかぎり、ひっそりやったほうがいい。