成功者が「性暴力」で人生を棒に振ってしまう根本理由

パワーの行使と乱用の違いを知ろう
藤岡 淳子 プロフィール

人間社会のサークルとトライアングル

有名な対人関係論者であるドナルド・ウィニコットによれば、人間が集団生活を営む上で、二通りの関わり方がある。

一つは、一人ひとりが同じように大切で、存在自体(Being)が尊重される関係である。一人ひとりが考えていること、感じていることが唯一無二で尊いとされる。

例えば、大切にされている赤ちゃんであれば、その子が何の役にも立たず、寝て、食べて、排泄して、泣いているだけだからといって、ないがしろにされたりはしない。

むしろ大切にケアされる。「役に立つか」という基準ではなくて、生まれてきて、ここにいるということが何より重視される。

生きることに困難を抱えた人たちの自助グループでは、そうした関わりをサークルと呼ぶ。

メンバーは輪になって、一人ひとりの顔が見える状態で、自身の体験や気持ち、考えを話し、聞かれる。輪の中に注ぎ込まれた様々な体験から、一人ひとりは自身の命の水を汲むことができる。

誰が偉いとか賢いとかではなく、「上もなければ下もない。始まりもなければ終わりもない」。

自分がどう感じ、何を欲しているのかに気づいて、人に伝え、人のそれを聞き、他者との間で欲求充足を調整していく関わり方である。対等な横のつながりを基本とする。

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もう一つは、人間が集団として何かを達成しようとするときに、役割を分担し、権限とパワーの階層構造の中に位置づけられる縦の関係である。

集団の中で、ある個人が何を成し遂げているか(Doing)によって評価され、評価に応じて成果の分配を得ることが認められる。

これを前述の自助グループでは、トライアングルと呼ぶ。財力、地位、権限、人気、技術力等のパワーを入手するためにも人間は努力をする。その努力をしている人、達成できた人として、パワーを持っていること自体が尊敬の対象となりうる。

この関わりでは、何かが正しければ、他は間違いであるとみなされがちである。結局、何が正しいかより、より大きいパワーを持つ者が言っていることが、「正しい」とされることも多いように思う。

現実には、このサークルとトライアングルは、互いに支え合っている。どちらを欠いても人間の集団生活はうまく機能しなくなる。

そして、一つの関わりの中でも両方の関わり方が場面や状況に応じて使い分けられるものであるのだが、縦の関係が偏重される達成偏重の暮らしを続けていると、横の関わりがどうやら苦手になるようだ。

 

現代社会において、生まれではなく、個人の達成に応じて成果とパワーを得られるようになったのは偉大な変革ではあるのだが、得たパワーをどのように使いこなすかまではまだあまり意識が向いていないのかもしれない。

あるいはようやく、パワーの乱用はいけませんよ、皆が不幸になりますよ、やめましょうね、というところまではきたが、現実にはなかなか難しい状態にあるのかもしれない。

パワハラやセクハラがきちんと問題視されるようになってきたのは、私たちがそういう社会を作っていこうとしているという兆候の一つではあるのだろう。

いずれにせよ、集団から賦与されたパワーを自分自身のパワーと勘違いして、立場上承認された公的なパワーの行使以上に、私的な欲求の充足に乱用してしまいがちになる危険性は誰にでもあることは自覚しておく必要がある。

大学の教員などは、それほど大きなパワーがあるとは思えないが、それでも指導している学生にとっては、大きなパワーに見えるらしい。

身近な生活のありようを左右する、よりパワーが上位の人の意向やニーズを忖度して、下位の人が動こうとするのはよくあるように思える。

いつの間にか忖度されることが当たり前になっていく。他の人のニーズに気づかなくなっていく。

パワーというのは、行使している人には見えにくく、行使される人には抗いがたいくらいに圧倒的に見えるもののようだ。

学校でも、職場でも、達成と縦関係が強調され、対等な関係性や協働どころか、互いの同意の形成の仕方すら十分に目が向けられているとは言えない状況にあるように思える。

親子、先生と生徒、上司と部下、そうした縦関係の中で、目標達成のために全体として機能するよう、より上位にある者の指示に従うことと、上位者が、私的な欲求を満たすためにパワーを乱用することは全く別であるのに、文化全体が、それが混同されることに鈍感であり続けている。

人としてのパワーと職位など立場によって与えられたパワーは別物であるのに、本人ばかりでなく、周囲も混同してしまう。そのことがセクハラ、パワハラをはびこらせる温床となっているように思う。