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成功者が「性暴力」で人生を棒に振ってしまう根本理由

パワーの行使と乱用の違いを知ろう
セクハラ、売春、強制わいせつ……次々と性的な問題行動が明るみになった。これらの根本にあるものは何か? パワーの行使と乱用の違いとは? 『性暴力の理解と治療教育』の著者で大阪大学大学院教授・藤岡淳子氏が考察する。

彼らが「性暴力」問題でつまづいた理由

福田淳一財務次官のセクハラと新潟県知事の買春という政治家の性的問題行動の話題が続いていたが、山口達也メンバーの強制わいせつ事件発覚で全て吹き飛んでしまったような感がある。

セクハラ、買春、強制わいせつとラベルに多少の違いはあるが、自分の持っているパワーを乱用して、被害者の意思と自由を抑制し、自身の欲求を押し付けているという意味では、性暴力行動としての共通項がある。

政治家であろうと芸能人であろうと、仕事の面では優秀で成功を収めている人が、「性暴力」の問題でつまづくのは、一体なぜなのか?

被害者に「はめられた」のであって、加害行動をした人は「悪くない」と考えれば、理解できない感じの「もやもや」は生じないし、世の中は「正しい人が力を持っている」という安心感も保てるかもしれない。あるいは加害者の関係者は、自身の「責任」を問われずに済むのかもしれない。

性暴力の中でも、上記三人に共通するのは、暗い夜道や他人の家に無断で侵入して見知らぬ人を襲いました、というような一般的な性犯罪のイメージとは異なることである。

しかし、現実には、見知らぬ人に襲われるより、知っている人に襲われる性暴力の方がはるかに多いと言われている。ただし、表に出ることはずっと少ない。

元々の力関係の上下を背景にしてこうした性暴力行動は生じるので、様々な意味で力の弱い被害者が被害を訴え出ることは、さらなる被害をこうむる危険性が極めて高苦なることがある。

1対1の関係性の中で下位に置かれ、被害を受けたとしても、別の関係性の中で支えを得て、より強い加害者に立ち向かえる見込みがあれば表に出せる可能性も少しは高くなろうが、残念ながら、今の日本社会はなかなかその見込みが低いと見積もられる。

 

例えば、バーでも自宅でも、「呼ばれて行く方が悪い」という論調がある。こういう成功してパワーを持っている加害者は、パワーの乱用の仕方をよく心得ている。いわばプロであることが多い。

財務省の政務次官に呼ばれたら、夜中だろうと何だろうと飛んでいかないわけにはいかない、それ自体パワーの公私混同であると筆者には思えるが、日本の職業倫理では、「仕事だから」の一言で通ってしまう。そして、被害者側にも、もちろん特ダネをつかめるかもしれない、つかみたいという欲求もある。

有名芸能人の自宅に呼ばれたら、もちろん行ってみたい、友達に自慢できる、変なことするような人じゃないと思うし、でもちょっと怖いから友達と行く。

被害者の方は、性行為を望んでいるわけでは決してない。加害者はおそらくそれを知っていながら、あるいは知っているからこそ、さまざまな「餌」をまいておびき寄せる。

被害者側のニーズにつけ込み、自分にはそれを満たす力があることをちらつかせながらおびき寄せ、結局相手のニーズは踏みにじり、自身の欲求のみを充足させる。むき出しの身体暴力を振るうほどレベルは低くない。罠を仕掛け、騙しうちにし、最後は強制力を振るう。

その実態は、周囲にはなかなか知られないし、被害者の方も、騙された自分への屈辱感や自責感も強い。

SNSによる出会いや、金銭を介しての性行為は、比較的シンプルな金力というパワーの乱用で分かりやすいが、いわゆるセクハラ、パワハラと呼ばれるような仕事上の関わりを介しての性暴力で用意されるようなワナや餌は、加害者の暴力行動が糾弾されにくいように、より周到に準備されている。

最初は、慎重に行っているのだが、露見しないのをよいことに、段々調子に乗ってきて、日常生活の中でルーティンになり、やりすぎて、表ざたになることが多い。