野間清治の肖像(講談社)

極秘資料を発見!日本の出版のあけぼのと、野間家の人々

【新連載】大衆は神である①
幕末・維新を経て、近代国家として歩みはじめた、日本。その時代はまた、日本に「巨大メディア企業」が誕生する黎明期でもあった。
日本社会のさまざまな場面で垣間見える、権力とメディアの応酬。そして、インターネットを中心に広がる、既成メディアへの不信。だが、そもそもこの日本で、一般大衆と向き合うメディアは、どのようにして生まれ、拡大してきたのか。メディア、権力、大衆、そして近代史の暗部――。知られざる歴史に光を当ててきたノンフィクションライターの魚住昭氏が、ウェブという場で挑戦する、まったく新しい近代メディア史、新連載『大衆は神である』第1回。

極秘資料を発見

目の前に積まれた段ボール箱を見たとき胸が高鳴った。その中には濃紺やあずき色のハードカバーにがっちり保護された、ぶ厚い合本が約150巻あった。講談社が昭和34年(1959)に編纂した社史『講談社の歩んだ五十年』のもとになった秘蔵資料である。

ここにたどり着くまでの経過をまず説明しておかなければならない。私はその半年前から講談社のオーナー一族である野間(のま)家の人びとに関する文献を読み漁っていた。たとえば、

・東京帝国大学の書記から「日本の雑誌王」になった初代・野間清治(せいじ)の著書や伝記。

・清治の死から約3週間後に29歳の若さで逝った2代社長・恒(ひさし)の遺稿。

・恒の母で、「尼将軍」ともいわれた3代社長・左衛(さえ)の追悼録。

・南満洲鉄道(満鉄)のエリート社員から4代社長になった省一(しょういち)の伝記・追悼録。

・終戦直後に自決した阿南惟幾(あなみこれちか)陸相の5男だった五代社長・惟道(これみち)の追悼録。

・惟道急死のあとを受け、6代社長となった惟道の妻・佐和子(さわこ)の追悼録……。

どれも興味深く、価値あるものだが、関係者の遠慮や配慮が薄いベールのように覆いかぶさっているので、切れば血の出るような真実まではなかなかたどり着けない。私が知りたいと思っているのは、数奇な運命をたどった野間家の人びとの赤裸々な姿と、そこから見えてくる、日本における「マスメディアの時代」の幕開けと展開である。

 

そのために必要なのは未公開の証言記録だ。それが、あるのはわかっていた。

なぜなら『講談社の歩んだ五十年』の凡例(=書物の最初に、その本の編集方針や使い方などを箇条書きにしたもの)に〈一、頁数の都合で採録し得なかった尨大な資料は、他日のために秘蔵することにした〉という、ちょっと意味深な一項があったからである。

その秘蔵資料はいまどこにあるのか。講談社の元社長室長・市原徳郎(いちはらとくろう)に聞くと、10年ほど前までは本社6階の社史編纂室わきの小部屋にたしかに保管されていたという。

だが、いまはその社史編纂室自体が解散し、資料保管の小部屋もなくなっている。

現在の社長室長・高橋明男に資料のその後の行方を調べてもらった。すると、埼玉県与野市にある講談社の倉庫に送った可能性が大だから、そこを探してみるという。

2週間ほどして高橋から連絡があった。「見つかりませんでした」。きっと講談社の倉庫の中は巨大な迷路のようなものにちがいない。いったん見失ったら、もう見つけるのは難しい。

あきらめかけたとき、いまの週刊現代編集長・鈴木崇之(たかゆき)から「他にいくつか心当たりがあるから、もう少し待ってください」とメールが届き、数日後に「発見!」の知らせがあった。

詳しい経過はわからないが、2010年ごろ、社史に関係した資料すべてを100個くらいの段ボール箱につめ、本社8階の総務会議室の奥に山積みしていたのだという。

私は講談社に駆けつけ、段ボール箱のなかから合本を取り出した。それぞれの合本の背表紙には、たとえば「野間清治を語る」や「二代社長を語る」という標題が金字で彫られ、1から147までの通しナンバー(なぜか第126巻だけが欠落している)が振られていた。合本の中身のほとんどは、200字詰めの原稿用紙に手書きした速記録の束である。

なにしろ60年ほど前のものだから、原稿用紙が黄ばんで劣化が進み、そっと触らないと破れてしまう。ここに登場する語り手たちのほぼ全員がもう他界しているのだから、私がいま彼らの声をすくい上げなければ、貴重な証言が闇に消えてしまう。

[写真]発見され、現在は魚住氏の書斎に並んでいる講談社社史の資料合本発見され、現在は魚住氏の書斎に並んでいる講談社社史の資料合本