生活が厳しい困窮家庭を救う「子ども宅食」半年の成果

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大西 連 プロフィール

「困っている」と言えない現実

一般的に、生活に困っている、ということを自分の家族や友人等の親しい関係以外で誰かに伝えるのは難しいことだ。

というより、自分の家族や友人等にも伝えるのがためらわれる、むしろ、親しいからこそ言いたくない、知られたくないといった場合もあるだろう。

知られたくない、言いたくない事情は人それぞれではあるとは思うが、生活が苦しいということが「恥ずかしい」「あってはならないこと」であるという認識はまだまだ社会のなかで根強い。また、いわゆる「自己責任論」のような言説の影響もあるだろう。

特に、子育て世帯の場合、本来であれば生活が苦しいということは、子どもの養育の観点からも外部の支援や協力が必要な状況の可能性が高いわけではある。

その一方で、そういった外部の支援が意味するもの――たとえば、子育てがきちんとできていないとみなされて子どもを保護されてしまうのではないか、親失格とレッテルを貼られてしまうのではないかなど――を気にして、外部への相談にハードルを感じてしまうことが多く、すぐさまつながりにくい、ということは言えるだろう。

それこそ、子育てに不安がある、経済的に苦しい、などの相談は、むしろ、多くの場合、積極的に早期の段階で公的機関や民間の相談機関等にアクセスしてもらいたい。

だが、実際には、なんとか自分(自分たち)だけで解決しようと試みたり、相談することが恥ずかしいこと、何か悪いことのように感じて難しかったりすることが多い。

こういったなかで特に「子どもの貧困」に取り組むために支援をしていくことはまだまだハードルがあるのが実情だ。

前回に書いた記事のなかでも「子ども食堂」のなかで、対象を貧困家庭に特化した形ではなく、地域の居場所的な要素を前面に出しているところや、貧困家庭の子どもと銘打たない打ち出し方で拡げているところなどを紹介したが、それは端的に、「困っている」と声をあげにくい社会背景をあらわしている。

「子ども食堂」のように、地域の「場」で支援プログラムを実施し、ある種、「見える形」で支援をおこなっていくのも一つのアプローチではあるが、「子ども宅食」の取り組みの特徴は、必ずしも「見える形」にこだわらず、「見えないこと」を意識していることでもある。

 

来るのを「待つ」のではなく「届ける」

「子ども宅食」の事業の大きな特徴は「届ける」ということだ。配送を希望する人の自宅に必要な物品をまとめて配送する。

ホームレス支援を例に出すのは恐縮だが、いわゆる「炊き出し」のように、決まった時間に公園などの決まった場所で食料提供等の支援を拠点的におこなうのが「子ども食堂」であるとすれば、「夜回り」などのように、そういった「炊き出し」に来ることができない人に、その人が寝ている路上、駅構内、公園などにこちらから出向いていく支援が「子ども宅食」に近いのではないかと思う。

こういった「夜回り」のような活動を「アウトリーチ」と呼ぶことがあるが、そういった拠点に来ることが難しい人や、支援を利用することにハードルを感じてしまう人に対して、こちらから出向いていって支援を届けることには意味がある。

そういった場や機関に来ることが難しい状況、というのは、さまざまだ。

たとえば、特定の拠点に行くには交通費がかかるとか、仕事の関係でその時間にその場所に行くことができない、などのハード的なこともあれば、そこの人たちとコミュニケーションをとりたくない(相性が良くない)、当事者同士の交流を希望しない、そこに出入りしているのを周囲の人に見られたくない(気づかれたくない)などのソフト的な要素もある。

そういった意味でホームレス支援の文脈において、「炊き出し」のような支援と「夜回り」などの支援が補完的な関係にあるように、「子ども食堂」のような支援と「子ども宅食」のような支援も、それぞれのニーズや状況に対して補完的であると言えるかもしれない。

もちろん、これは、支援を利用することに「ためらいがある」という価値観や、拠点型支援が限られた時間しか開いていない(子ども食堂なら月に2日の開催など)といった現状の支援メニューの不十分さを前提条件にしたときに、という話ではある。

例えば、支援を利用するのが当たり前(ためらいを感じなくて良い)という価値観が一般的になったり、拠点型の支援がかなり拡充してそれぞれの地域で、多様なニーズにあった支援組織や取り組みが整っていたりすればこの限りではないだろう。

支援を利用する、ということに対しての「ハードルが高い」というのが実情のなかでの支援のあり方を考えた時に、この「見えない形」で支援を「届ける」というのはとても重要であろう。

特に都市の場合、集合住宅など隣に誰が住んでいるかわからない、などの状況があるわけで、そういった地域コミュニティーの希薄さは、住人同士の相互扶助的な支え合いが発生しにくい面はあるものの、ある意味、知られずに済む、関わらずに済む、まぎれることができる、という側面はある。

その良し悪しは当然あるが、一つの方法として「見えない形」で支援を「届ける」というのは、実際のニーズに合っていることだとも思う。