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大反響「底辺校出身の東大生」は、なぜ語られざる格差を告発したのか

本人が批判と疑問に応える

衝撃をもって受け止められた、阿部幸大氏による「教育と文化の地域格差」に関する論考「『底辺校』出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」。「地方には、高等教育を受ける選択肢や機会そのものが不可視になっている層が少なからず存在する」という問題提起は、多くの読者の共感を得ると同時に批判をも呼び、議論はなお収まらない。

膨大な数にのぼる反響をふまえて、続編をお届けする。

ぜひ最後まで読んでほしい

前回の記事が想像以上に大きな反響と議論を呼んだため、本稿は連載形式をとることになった。さしあたり今回は、前回の記事に対していただいた反論や疑問に応答する。

反応はあらゆる媒体にわたって膨大な数にのぼっており、とてもすべてに目を通せたわけではないが、以下では、とくに重要だと思われるいくつかの指摘をピックアップして、できる範囲でお応えしたい。リアクションの総括には「現代ビジネス」編集部の担当者も協力してくれた。ありがとうございました。

最初に内容を概観しておこう。

まずは、謝罪しなくてはならない点がいくつかある。具体的には、釧路を含めた田舎にある店舗や施設、あるいは個人などを、あたかも存在しないかのごとく記述したことについてである。田舎を攻撃することなど、当然ながら、私の目的ではない。なぜそう聞こえる書き方を選択したのかも説明する。

つぎに、いくつかの批判・反論に対してコメントする。もっとも激しい批判は、都会からではなく、田舎(を知る人)から提出されており、とくにその意味について考えることにしたい。これは私には、田舎の内部の格差に起因するように思われた。

さらにインターネットの話にふたたび触れ、総括に入る。最後のページは重要なので、ぜひ読んでもらいたい。

本論に入るまえに、大前提として述べておきたいが、前記事に対してツイッターや記事へのコメントで寄せられた反応の大部分は「私が長年思っていたことを言語化し周知してくれた」という賛同であり、さらに注意してほしいのは、これらはおもに「田舎と都会の両方を知る人」から発せられている、ということである。

つまり、もっとも大きな格差を味わっている人々、田舎しか知らず、その格差の存在にさえ気付きにくい人々の声は、まだまだ上がっていないのだ。

以下の議論は、そのことを念頭に置きつつ読んでもらえればと思う。

 

「否定された」と感じた方へ

前回、私は「田舎と都会」という大きな二分法で議論を立てた。私が意図したのは、なによりもまず、地域格差という問題の提起と可視化そのものであったためである。

この「都会と田舎の格差を訴える」という最優先の目的を達成するにあたり、私は田舎と都会を、いわばイチゼロで語る方針を採った。そのようなわけで、いきおい、田舎には大学も書店も美術館も学習塾も「ない」のだ、それをまずは知ってほしい、という断定的な表現を多用することになったのだ

ただし、私は本文で「田舎」と「釧路」と「私」という主語を使い分け、一般論、釧路の例、個人的体験などを慎重に腑分けした書き方をしているつもりである(前回の記事が「虚偽だ」という意見に賛成の人は、本稿を読んでから、もういちど読み返してほしい。まったく違って見えるはずだ)。しかし、それがうまく読み取ってもらえなかったということは、私の書き方が悪かったということだ。

まずはこの点について、特定の団体や個人にかぎらず、田舎で一生懸命に暮らしている人々、あるいは田舎だからこそできることを模索し挑戦している人々が、その存在や試みを無視され否定されたと感じたとすれば、それは心から謝罪するしかない。まことに申し訳ない。

私とて、むろん、釧路市をふくむ田舎を敵視・蔑視していると誤解されるのは本意ではない。たしかに十代の私にとって、釧路はなんとしてでも「脱出」すべき場所だった。私は情報と文化に飢えていた。しかし、田舎に生まれなければ現在の自分はありえないのだし、中高ではいまだに私淑している恩師にも恵まれた。

私にとって地元は、愛憎の相半ばする親のような存在である。田舎から都会への移動を経験した人の多くがそう感じていることだろう。私は帰省のたびに母校やお世話になった人々を訪問し、授業や講演のようなことをしていることも付記しておく。

だがこうした補足が、前記事の根幹にある主張を覆すわけではない。強調したように、地域格差ゆえに機会を与えられずにいる人々は、まぎれもなく、大量に存在しているのだから。

この謝罪によって、「ほら、やっぱり田舎にだって大学も美術館もあるじゃん」ということにされてしまう事態を私は懸念している。「田舎にも〜がある」という事実は、それが都会に「ある」という事実とは、まったく比べ物にならない、ということを強調しておきたいと思う。この点についてはもう少し詳しく述べたいのだが、稿を改めよう。

ほんらい、こうした議論は社会学者の仕事であるはずなので、「門外漢がいいかげんなことを言うな」という専門家からの叱責には甘んじるしかないが――ただし地域格差を研究する社会学者からはむしろ賛同を得ている――しかし、私のような門外漢が個人的な経験を語るだけでこれほどの反応が噴出したという事実によって、やはり「田舎と都会」の二分法で語りうる巨大な問題が厳然として存在すること、そしてそれが不当に放置されていることは、じゅうぶんに示されたはずである。