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「生誕100周年」田中角栄の知られざる素顔を語ろう

その存在感は「山のごとし」だった
強力な行動力とリーダーシップで政治を牽引し、また類まれなる人心掌握術で人望を集めた政治家・田中角栄(1918年5月4日生まれ)。元日経新聞政治部長にして長きにわたり自民党の取材を重ねてきた岡崎守恭氏の著書『自民党秘史』より、晩年の田中角栄の"知られざるエピソード"を紹介する。

言ったとたんに後回し

一昔前の元日、自民党の国会議員はまず皇居、次に党本部、そして首相公邸、最後に自分の所属する派閥の領袖の私邸という順番で新年祝賀会に顔を出すのが定番だった。

最近まで小沢一郎氏の自宅の新年会が話題になっていたが、今は領袖という名にふさわしい親分もいないし、面倒臭がって家族とホテルにこもったりしてしまい、どれだけ年始客を集めるかを競った時代は終わった。

一九八五(昭和六〇)年一月一日。田中角栄氏の私邸、世に言う「目白御殿」は例年にも増して年始客であふれていた。

田中派の人数は膨れ上がり、「自民党の周辺居住者」とうそぶく闇将軍は表面上、絶頂を迎えていた。

田中家の書生だった人が「『来る者は拒まず』が凝縮された千客万来の元旦」と評しているが、まったくその通りの光景だった。

大皿に稲荷ずしと、ぶり大根、ソーセージが山盛り。生寿司なんかすぐにパサパサになって食えたもんじゃない、その点、稲荷ずしはいつまでもしっとりしている、鯛なんて正月はどこへ行ってもあるし、見るだけで誰も手をつけないじゃないかという田中氏の振る舞い哲学を反映した料理である。

 

田中派だけでなく、まさに超派閥。満堂の国会議員らを前に、促されて角栄氏は立ち上がった。

「アーッ、沈黙は金。正月に料理を前にして長くしゃべるのは馬鹿だ」とつぶやきながら「『謹賀新年、正月元旦』とだけ言っておけばいいんだ」と一言。マイクを「オーイ、竹下君」と竹下登蔵相に渡した。

竹下氏はいつもの真面目とおとぼけが同居しているような顔で、「さきほど宮中で安倍(晋太郎)外務大臣と並んで陛下のお出ましを待っていましたら、後ろの山口(敏夫)労働大臣から『次ねらう大臣二人の揃い踏み』と言われましたので、『言ったとたんに後回し』と返しておきました」。

年始客はどっと沸いた。

田中氏が竹下氏の政権への意欲を抑え込み、「俺がもう一度、やってからやれ」と思っていたこと、これに対し竹下氏が後に竹下派となる「創政会」の設立を胸に秘めていたことは今となっては誰でも知っている。

が、この時点ではまだ水面下のうごめきだった。竹下氏の挨拶は突然、指名されたにもかかわらず、まさに意味深長で、秘めた凄みがある。

ただ竹下氏はちょっと行き過ぎたかなと思ったふしがある。この後、この"名句"が話題になると、「次ねらう」のくだりを「次を待つ」とトーンダウンしていた。この緻密さも竹下氏である。

一月二四日。ホテルニューオータニで田中派の新年会。

田中氏は勧められて「湯島の白梅」を歌った。演説はダミ声、得意は浪花節だが、細く切ない歌声である。

次はまたも竹下氏。佐藤栄作首相の下で官房副長官、官房長官を務めた若き時代によく歌った十八番、ズンドコ節を久しぶりに披露した。

講和の条約 吉田で暮れて
日ソ協定 鳩山さんで
今じゃ佐藤さんで 沖縄返還
一〇年たったら竹下さん

この場面を描いたどの本でもこの歌詞が紹介されている。確かにこれが"元歌"である。実際はこの日、竹下氏は一節だけ違うバージョンで歌った。「今じゃ佐藤さんで 沖縄返還」のところを「今じゃ角さんで 列島改造」と変えたのである。

この前日に、永田町からちょっと離れ、知り合いと顔を合わせない東京・築地の料亭「桂」で、「創政会」の秘密準備会が開かれていた。金丸信氏が「血盟の誓い」を口にし、竹下氏も「竹下登のすべてを燃焼し尽くす」と顔を紅潮させていたのである。

ズンドコ節でわざわざ田中氏の名前を出したのは、同席している田中氏への気配りと聞こえたが、そうではなく、「田中から竹下へ」への決意をにじませたのである。

実際、田中内閣から一〇年以上が経過していた。会場にいた同志の一部にだけはわかり、オヤジにばれるのではないかとヒヤヒヤしたという。

「桂」で「創政会」旗揚げの初めての密議があったのが一ヵ月前の一二月二五日。その流れが元日の挨拶。次いで一月二三日の秘密準備会を経て、口にしたのが翌日の新年会での歌詞。

竹下氏の決意の高まりと状況の進展が竹下流で示されていたことが今となればはっきりとわかる。