哲学は、問いから開始される。
競走の途中で、草むらで眠るウサギの傍らをカメは通り過ぎる。カメはウサギを起こさないで、そのままゴールまで行ってしまう。
走力から見て、このレースでカメの勝ち目は九十九パーセントない。勝ち目のない戦いに颯爽と登場したのがカメである。「何が何でも勝ちたかった」というのは、カメに失礼なほど狭隘な理解である。
勝ち負けとは異なることをカメは実行していたのだろう。だが、結果はカメの勝ちであり、当惑するような勝利である。
こんなふうに経験を動かしていけば、何か別様な経験の場面に進むことができ、そこでは考え方や視野の拡大とは別の形で、経験は弾力を獲得していくことができる。
忘れることは、つらくて嫌な経験を無視することではない。見ないように、考えないようにすることではない。
ひとたび忘れ、想起をつうじて思い起こすことのなかで、同時に実行される経験の内面化には、獲得した知識の忘却が含まれている。
この経験は、たとえば自転車の乗り方のように、当初はさんざん苦労させられるが、ひとたび実行されれば自明化してしまう「手続き的経験」に近い。
こうしたあり方を「先験的忘却」と呼んでおきたい。
これが経験の自在さの場所を作り出す。そうした場所を、一揃い取り揃えようと試みることは、哲学の重要な課題の一つだと考えている。
本書『哲学の練習問題』(講談社学術文庫)は、その実践にほかならない。
読書人の雑誌「本」2018年5月号より