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# 歴史

幕末最強・庄内藩士の強さを支えた「驚きの教育システム」

学校がそこまで自由でいいんですか?

江戸幕府は、各藩の教育には口をはさまなかった。だから藩によって士風が大きく異なったことは、前回、薩摩藩と会津藩を例に詳しく述べた通りだ。

(前回の記事『江戸時代のエリートを育成した「驚きの教育システム」』こちら

今回は、その第二弾として、庄内藩(山形県鶴岡市)を取り上げたいと思う。

 

江戸時代のリベラル教育

庄内藩は、現在の山形県鶴岡市を本拠地とする東北地方の藩で、小説家、藤沢周平の作品にしばしば登場する「海坂藩」のモデルとしてご存知の読者もいるかもしれない。

厳しい封建制度が基本の江戸時代において、史実の庄内藩は、領民をかなり手厚く保護し、領民もこれに感謝の念を抱いていた。こうした庄内藩のユニークな風土は、その藩士教育の影響がきわめて強いと思われる。

前回紹介した二藩がいずれも徹底的に厳しく子弟たちを教育したのに対し、庄内藩の教育はきわめて自主性を重んじる、リベラルな教育なのである。

庄内の藩校「致道館」は寛政十二年(1800)、九代藩主の酒井忠徳の強い希望で創建されたが、次代(十代藩主)の酒井忠器は、致道館の講堂で役人たちに政務をとらせ、ときには会議や裁判もおこなわせた。

その理由について忠器は、「藩政にかかわる施策や方法は、学問をすることで身につく。学問を身につける場は藩校。ならば藩校そのものを藩庁(藩の役所)とすべきだ」と述べる。このように、政教一致という変わったスローガンをとなえたのだ。

さらに文化十三年(1868)、忠器は鶴ヶ岡城三の丸に致道館を拡大移築し、藩庁の機能もここに設置した。

なんともユニークな思考だが、致道館の教育も、他藩と違った特徴を持っていた。教育の柱を幕府が正学と認めた朱子学ではなく、徂徠学としたことである。

当時、幕府の学問所(昌平坂学問所)では、朱子学以外の学問を異学として禁止していた。そのため諸藩もこれにならい、朱子学を中心に教育をおこなう藩校が激増する。そんな中、庄内藩はこの流れに逆らい、徂徠学を中核にすえたのである。

理由はいたって簡単で、藩の重臣に徂徠学を学んでいる者が多かったからだ。