「人生は遺伝に縛られている」という残酷な現実は悲観すべき事なのか

拒絶する人に伝えたいこと
安藤 寿康 プロフィール

「環境が変えてくれる」という思い込み

本題に戻ろう。

(1)社会は膨大な遺伝的多様性から成り立っている
(2)一人ひとりは環境によってブレることのない確固とした遺伝的アイデンティティーをもって一生を生きている

この二つのメッセージの基礎にあるのが、今のべたDNAの圧倒的な共通性の「地」の中に浮かぶ0.1%の差異が生み出す遺伝的個人差の「図」である。

その図柄の違いが、あらゆる能力や性格などのこころの働きの個人差として、内側からあぶりだされて、私たち一人ひとりの生を作り出している。

その結果、いかなる社会的・文化的・歴史的・教育的環境のもとで生きることになろうと、誕生から死まで、その環境とは独立に、私たち一人ひとりの生き様に、ほかの人と同じになりえない独自性を作りつづけている。

これは遺伝宿命論などといったイデオロギーではなく、エビデンスに基づく科学的事実認識である。

 

政治家が「国民は…」と十把一絡げにわれわれを扱い、社会学者や評論家が「われわれの社会は…」と誰もが同じ文脈に放り込まれているように語ろうと、現実には右から左まで、社会に順応する人から反発する人まで、何かを創造する人から破壊する人まで、この世界の隅から隅までの多様性に満ち溢れている。

わが国は社会が画一化されたおかげで人々の心も均質化され、創造性がなくなった? とんでもない、ノーベル賞級の学者が次々と表れ、不治の病だった難病の治療がなされ、私たちの身の回りのあらゆる製品の中に便利な工夫と多様な意匠が凝らされているのは、その「画一化された」社会の中で画一化することのできない遺伝的多様性があるからだ。

社会学者や歴史学者が指摘するように、私たちの社会は19世紀後半以降(もうちょっと前からでもあとからでもいいが)、科学技術の発展が生み出した人口の爆発的増加と自由民主主義の拡大が生み出した文化的多様性のために、大衆の誰もが自分の生き方を自分で作り上げねばならなくなった。

たとえ突出した才能でなく凡庸であったとしても、凡庸なりに自分の人生を手探りで作り上げねばならなくなった。

〔PHOTO〕iStock

この多様性のある社会環境のなかで、環境に翻弄され自分を見失いがちな人間が、曲がりなりにも自分の歩む道を定め、知識と能力を高め、他者を助けることによって自分を生かすことができるようになるための確かな基盤は、一生持ち続けることのできる遺伝的アイデンティティーである。

それは不定形で名前もないまま、さまざまな形でわれわれの行動、価値判断、学習の仕方のすみずみにまで入り込んでいるので、それを実体としてとらえることはむずかしい。

それをかろうじてとらえることを可能にするのが、遺伝条件の同一な一卵性双生児がみせてくれる類似性だが、それがあることが双生児で見出された以上、同じ現象が双生児でない人々にも同様に起こっていると考えるのが自然である。

それがあるために、あなたはほかの人が苦労してやっとできるようなことが、なぜかすんなりできるのであり、また多くの人が楽々できていることに、なぜかしんどさを感じてしまうのである。

人間は遺伝によって縛られ環境によって自由になれると思い込んでいる人が多い。しかし現実は逆である。人間は環境によって拘束されている。