「人生は遺伝に縛られている」という残酷な現実は悲観すべき事なのか

拒絶する人に伝えたいこと
安藤 寿康 プロフィール

あらためて「遺伝」とは何か?

ここでその「運命的束縛感」「宿命的拘束感」に捉えられる前に、冷静に遺伝とは何かについての知識をおさらいしてみよう。

教科書のようなその話の奥に、遺伝が束縛の原因というよりも、豊かな可能性を秘めていることが読み取れる。

「遺伝」の実体がDNAであることは、いまや知らぬ人はほとんどいないだろう。

新年度の社長訓示でよく聞く「これこそ、わが社のDNAなのであります」のように、代々伝わる「伝統」ですら、いまは「DNA」といったほうがかっこいいようだ。

困ったことに、ここでもDNAはただの「伝達」の意味しかないが、その実体がアデニン、チミン、シトシン、グアニンで表される4つの塩基の長い配列からなる「デオキシリボ核酸」という物質であることをちょっとイメージしてほしい。

これを「A、T、C、G」という文字に置き換えて、この4文字のうちから3つずつ取って作られるあらゆる組み合わせ方からなる単語(アミノ酸)が一定の配列で意味のある文(タンパク質)を作り、その文が組み合わさって段落(骨や筋肉や神経などの組織、組織間の情報伝達をするホルモンや神経伝達物質など、ひとつの生命体を作り上げるあらゆる物質)をつくり、その段落が集まってひとつの物語(一つの生きもの)が成り立っていると考えてみよう。

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ここで「文」にあたるのが「遺伝子」、一冊の物語を成り立たせている全情報を「ゲノム」という(この比喩は本当は正確ではない。遺伝子がそのままタンパク質なのではなく、それが転写され翻訳されてタンパク質が合成されることや、DNAの中にはタンパク質をコードしている部分以外にも、タンパク質の発現のさせ方を調節している部分があることなど、重要なことが表わされていないが、ここではとりあえず無視してよい)。

驚くべきは、この文字の並びが全人類ほとんど共通だということだ。二人のヒトの違いはわずか0.1%。つまり1000文字に1文字しかちがわない。

この文章がここまでで1600字くらいだから、この中に1文字か2文字くらいのちがいしかないのだ。まずはこの圧倒的な遺伝的共通性を認識してほしい。

にもかかわらず、たった1文字の違いが大きな意味の違いを生むこともまた真実である。「私はカタ(博多)に生まれ…(2000文字近くの文)…バコ(煙草)を作っていた」と「私はカタ(酒田)に生まれ…(この部分すべて前文と同じ)…バコ(木箱)を作っていた」とでは、途中の2000文字の出来事がすべて同じだったとしても、この二人が異なる人生を歩んでいることは想像がつくだろう。

差が小さいといえば、こんなに小さい、しかし大きいといえば、決定的にちがうといっていいほどちがう。

 

遺伝子が生み出す個人差も同じようなものだ。

竹内涼真クンもこの私も、同じように目が二つ、鼻と口が一つずつあるが、彼はモテるが私はモテない。

羽生結弦クンもこの私も、同じようにスケート靴を履いて氷の上を”移動”できる(私だって小学生のころちょっとだけスケートをしたことはあるのだ)。

私はすぐにバランスを崩して転んでしまうが、彼は誰もできなかった速さと美しさで宙を舞う。その差が0.1%のDNAの違いと、生後の環境と努力の違いからくる(ルックスだって環境と努力が生み出す能力の違いだ)。

この違いがあらゆる人のあらゆる能力についてある。それは環境や努力の度合いだけでなく、0.1%のDNAの違いにもある。その環境の違いと同じくらいのウェイトをDNAの違いがもたらしていることを行動遺伝学は証明した。

そういう違いのある76億人の人たちが、この社会を作り上げ、お互いに関わりあっているのだ。それでも理解しあえるのは、99.9%が同じだからであり、理解できずに互いにいがみ合い、理不尽な差別や格差に苦しむのは0.1%に違いがあるからである。