山本五十六の戦死に翻弄された、ある若者たちの運命

75年前の今日、搭乗機が撃墜さる
神立 尚紀 プロフィール

徹底的に秘匿された山本長官の死

6機の護衛戦闘機の搭乗員に任務が伝達されたのは、17日夜のことであった。指揮官兼第一小隊長・森崎武予備中尉、二番機・辻野上豊光一飛曹、三番機・杉田庄一飛長(飛行兵長)。第二小隊長・日高義巳上飛曹、二番機・岡崎靖二飛曹、三番機・柳谷謙治飛長。司令室に呼ばれた六人の搭乗員は、翌日の任務は聯合艦隊司令長官の護衛であり、その責任の重いことを伝えられた。

 

森崎予備中尉は24歳。神戸高等工業学校在学中に召集されて昭和15(1940)年4月、飛行科予備学生7期生として海軍に入った。ミッドウェー海戦で重傷を負い、顔の右頬や手にまだケロイドが残っていた。ラバウルに進出以来半年あまり、実戦の経験はすでに十分に積んでいたが、負傷の後遺症で視力がよくなく、薄いサングラスを常用していた。

日高上飛曹も24歳、昭和15年1月に操縦練習生を卒業していて、開戦以来、フィリピンから東南アジアを転戦。この日の6機のなかでいちばん搭乗歴の長いベテランだった。

辻野上一飛曹は21歳。4月3日に着任したばかりだが、飛行隊長・宮野大尉の眼鏡にかなったのであろう、「い」号作戦では宮野の二番機として出撃している。

岡崎二飛曹は20歳。ラバウルに来て5ヵ月が経過しているが、大きな空戦にはこれまであまり縁がなく、「い」号作戦で急に頭角を現した感のある搭乗員であった。

柳谷飛長は24歳。昭和15年、徴兵で海軍に入り、内部選抜で戦闘機搭乗員になって以後は、ずっと二〇四空にいて、すでに相当な実戦の場数を踏んでいる。

杉田飛長は、最年少の18歳。だが、戦闘機乗りになるために生まれてきたような男で、敵爆撃機を空中衝突で撃墜するなど、その元気で向こう見ずなところは比類がなかった。

昭和18(1943)年4月18日、山本長官機を護衛した6名の零戦搭乗員。上段右から森崎武予備中尉、辻野上豊光一飛曹、杉田庄一飛長。下段右から日高義巳上飛曹、岡崎靖二飛曹、柳谷謙治飛長

6人の搭乗員のうち、ただ一人、戦争を生き抜いたのは柳谷謙治飛長(のち飛行兵曹長)である。私は柳谷さんに、都合3度にわたってインタビューしている。柳谷さんの右手は、手首から先が失われていた。

「一番機の左後ろに二番機がつくのが普通ですが、この日は長官機の右後ろに二番機(参謀長機)がついていたと思う。その右後ろに、零戦は3機、3機でついた。敵機がもし来るとすれば海側、つまり右側(南側)からなので、海岸側を警戒していたということです。ところが――」

ブーゲンビル島上空に差しかかり、島の南端にあるブイン基地がマッチ箱のように小さく見えてきたところで、日高上飛曹が、予想に反して北側のジャングルの方向から向かってくる敵戦闘機・ロッキードP-38の編隊を発見した。米軍は日本側の暗号を解読し、米軍戦闘機のなかでもっとも航続力のあるP-38を16機発進させ、山本機を討ち取ろうと待ち構えていたのだ。

「敵機の方が先にこちらを発見したらしく、P-38はすでに攻撃態勢に入っていた。われわれは長官機の上空500メートルほどのところに位置していましたが、敵機は意表をついて、低高度から突き上げてきたんです。長官機を守ろうと、森崎予備中尉機、日高上飛曹機が突っ込んでいき、われわれもそれに続いた。私もすぐに敵機に追いつきました。威嚇射撃だから当たらなかったかも知れないが、一発、追い払って機体を引き起こした。続いて攻撃態勢に入ったとき、ふと見ると長官機は煙を噴いていました……」

長官機は浅い角度でジャングルに撃墜され、ひと筋の黒煙が天に上った。参謀長機も、海上に撃墜された。全てはあっという間の出来事だった。

この日、ブイン基地には第五八二海軍航空隊(五八二空)の零戦20数機がいたが、長官機の到着予定時刻に上空哨戒もしていない。ここで上空に零戦を飛ばせていれば、敵機もやすやすと手出しはできなかったのかもしれないが、そんな命令すら司令部からは出されていなかった。五八二空零戦隊の一員としてこのときブイン基地にいた角田和男さん(飛曹長、のち中尉)は、この日、山本長官が視察に来ることすら知らされていなかったという。先の野村参謀の嘘は、このことからも明らかである。

6機の護衛戦闘機は全機、無事であった。報告を受けて、五八二空飛行隊長・進藤三郎大尉が墜落地点の確認に飛んだ。

「ジャングルのなかから、長官機の墜落地点から黒煙が高く上がっているのが見えました」

と、進藤さん(のち少佐)は私のインタビューに答えている。

「どうして長官がこんなところまで、わざわざ来なくても俺たちは頑張ってやってるのにな、というのが率直な思いでしたね」

一番機の乗員は、山本以下、全員が戦死。海に墜ちた二番機に乗っていた宇垣参謀長と、艦隊主計長・北村元治少将、主操縦員・林浩二飛曹の3名だけが奇跡的に助かった。のちに発見された山本長官の遺体には、背中から心臓にかけての盲管銃創、下顎からこめかみへの貫通銃創があり、これらが致命傷となって機上で戦死したものと思われた(これには、山本は墜落後もしばらく生きていたとする元軍医の回想もある)。

報告を済ませた6機の搭乗員には厳重な緘口令が言い渡され、やがて、ラバウルへの帰還が命ぜられた。

「すでに長官機が撃墜された情報は届いていて、森崎予備中尉の報告に、杉本司令と宮野隊長は悲痛な表情でうなずくだけでした。司令は『ご苦労』と沈んだ声で言うと、このことは他言無用であるということを、厳しい調子で言いました」

と、柳谷さんは回想する。最高指揮官が前線で不慮の死を遂げたとなると、全軍、全国民の士気に与える影響は計り知れない。山本の死は、まずは徹底的に秘匿されることになったのである。

緘口令を敷かれたのは米側のパイロットも同じだったが、こちらの方は暗号解読の機密を漏らさないための処置で、その後は英雄として扱われる。