昭和18(1943)年4月、ラバウル基地で出撃する搭乗員を見送る山本五十六聯合艦隊司令長官

山本五十六の戦死に翻弄された、ある若者たちの運命

75年前の今日、搭乗機が撃墜さる
山本五十六聯合艦隊司令長官——日本を破滅に追い込んだあの戦争にかかわった軍人の中で、戦後もヒーローとして取り上げられる筆頭といえば、この人だろう。今から75年前の今日、昭和18(1943)年4月18日、前線の攻撃隊員を激励に向かった搭乗機が、暗号を解読していた敵の戦闘機隊に急襲され、墜落、戦死した。この重要人物の護衛にあたっていた戦闘機はわずか6機に過ぎず、搭乗員はみな20歳そこそこの若者たちだった。その中で唯一、戦後まで生き延びた搭乗員が、神立氏に語ったあまりに「悲壮な覚悟」とは?

日米開戦に反対し続けた「良識派」の海軍軍人

5年前の平成25(2013)年4月、私はNHKスペシャル「零戦~搭乗員たちが見つめた太平洋戦争」の番組監修のため、NHKエンタープライズのディレクター・大島隆之氏と、かつて南太平洋で日米両軍が激戦を繰り広げたパプアニューギニア独立国のニューブリテン島ラバウル、ブカ島、ブーゲンビル島などを旅した。

 

いたるところに旧日本軍の防空壕や施設跡が残り、飛行機や兵器の残骸がまさに朽ち果てようとしている。そのさまは、戦争のむなしさを伝えると同時に、過ぎ去った時間の長さを実感させるものだった。

ところがこの地で、いまなお伝説的にその名を語り継がれている日本人がいる。聯合艦隊司令長官・山本五十六海軍大将(戦死後、元帥の称号を授けられる)である。

山本五十六聯合艦隊司令長官。開戦前、聯合艦隊旗艦「長門」にて。海軍省が公表した1枚

いまからちょうど75年前の昭和18(1943)年4月18日、一式陸上攻撃機に便乗してラバウル基地を飛び立ち、前線視察に赴く途中、ブーゲンビル島ブイン付近の上空で米戦闘機の待ち伏せ攻撃に遭い、乗機が撃墜され機上戦死した。

山本の死後も戦争は二年以上にわたって続き、米軍機による爆撃の巻き添えで多くの現地人が犠牲になったが、パプアニューギニアの人たちは日本に対し、いたって友好的である。そのパプアニューギニア、なかでもラバウルあたりで、こんにちもっとも有名な日本人といえば、「Yamamoto」と「Ninja」なのだという。

現在のラバウル全景。湾をはさんだ半島の、黒く見える平地がかつてのラバウル東飛行場

「Yamamoto was great!」「Yamamoto was strong!」と、行く先々で現地の人から聞かされ、私は、驚くと同時に意外の念を抱いたものだ。

なぜなら、山本五十六がラバウルにいたのはわずか半月に過ぎず、その間、航空作戦の陣頭指揮をとったほかは、現地の人たちの記憶に残るようなエピソードなどなかったはずだからである。

ラバウル市街に「ヤマモト・バンカー」と呼ばれる防空壕があり、「ヤマモトがここで最後の夜を過ごした」として、一種の観光スポットになっている。だが、この壕は南東方面艦隊司令部の地下壕だったところで、じっさいに山本五十六が寝泊まりしたわけではない。

 ラバウル市街にある旧日本海軍の防空壕、通称「ヤマモト・バンカー」の入口前には、25ミリ三連装対空機銃が残っていて、子供たちの遊び場になっていた

「あの飛行場はヤマモトがつくった」「ヤマモトがアメリカ軍を追い詰めた」などとしばしば耳にしたものの、いずれも史実とはかけ離れた「言い伝え」の類だった。喩えが適当かどうか、現代のラバウルにおける山本五十六伝説は、日本における弘法大師伝説のようなものなのかな、とふと思った。

山本五十六は、日独伊三国同盟締結に命を張って反対、日本の国力を冷静に分析し、日米開戦に反対し続けた「良識派」に属する海軍軍人として知られる。航空機の時代を早くから予見し、航空軍備の充実を主導。聯合艦隊司令長官となり、個人としての思いとは裏腹に対米英戦の指揮をとることになったとき、自ら手塩にかけた航空兵力をもってハワイ・真珠湾攻撃を実行した。

開戦前、近衛文麿首相に戦争の見通しを聞かれたとき、山本は、

「ぜひやれと言われれば半年や1年は存分に暴れてみせます。しかし、2年、3年となっては全く確信が持てません」

と、答えたと伝えられる。その言葉を自ら実証するかのように、開戦から1年5ヵ月と10日後、最前線で戦死を遂げた。その信念に満ちた生き方と運命的ともとれる最期から、とかく批判の的になりがちな旧日本軍人のなかでは、一般に好意的に評価されている。

――だが、その死が多くの若者たちの運命をも巻き添えにしてしまったことについては、こんにち、ほとんど省みられることがない。