撮影/森 清

二人の芸術家が語り合う「不完全なもの、の美しさ」

吉増剛造×ヴァレリー・アファナシエフ

文学と音楽の対話。芸術の根源に二人の芸術家が迫る。常に現代詩の前衛を走り続ける詩人吉増剛造と、クラシックピアノの鬼才ヴァレリー・アファナシエフの奇跡の出遭い。アファナシエフ来日コンサートを前に、文芸誌『群像』1月号に掲載された対談を、ダイジェストで掲載。(コンサート情報は記事の最後に!)

アファナシエフさんのピアノと接して

吉増 この一年、ほとんど奇跡のようなことが起こりまして。耳も目も西洋音楽に暗いわたくしが、アファナシエフさんのピアノに接することによって、とうとう音楽のみならず、芸術の奥底の扉を叩くことが、わたくしなりに可能となりました。

なかでもシューベルトの最後のソナタ(第21番)に驚嘆をいたしました。

クラシック音楽には疎いといいながらこのようなことを申し上げるのもまことにおこがましいことなのですが、まさに、これまでのどの演奏家も実現したことのないであろうような、深く、そしておそろしいシューベルトの光り、……(の言語、……)といっても過言ではないものを提示して下さった。

それで、わたくし、このところもう何年も、『怪物君』という、おそらく自分のライフワークになるであろうプロジェクトを続けているのですが、その一環で、アファナシエフさんのこの演奏のCDをかけて映像を造るということをいたしました。

アファナシエフ 私も、吉増さんにこうして出会えたことに感謝を申し上げたいと思います。

昨年、欧米で出版された吉増さんの英訳詩集(『ALICE IRIS RED HORSE』)を、昨年、コンサートで来日したときに「日本にはこんな詩人がいますよ」と頂戴し読ませていただいてから、そのユニークな詩法に驚嘆し、詩と音楽について、それから空間と時間の関係などについて思いを馳せることになりました。

ヘーゲルは、「空間を感じるには一度、自分自身から出てみて外でさまざまな経験をしなければならない」と言いました。そしてその後に「また自分に戻ってきて、その経験について整理する」と。

これはわたしにはひじょうに親しい感覚だったのですが、吉増さんの本を読ませていただいて、自分が抱いていた感覚が自分一人だけのものではなかったのだと思うようになりました。

自分には、この「外に出てみる」のがうまくいかなかったことがあり、どうしてなのかと思っていたのですが、吉増さんの本を読ませていただいてからは、むしろ、自分はもうすでに自分のいるべき場所にいるのだから、ものごとが起こるのを待つだけで十分ではないか、そう思うようになりました。

これは自分の人生の一つのターニングポイントだったと思うのですが、モスクワ音楽院でついたヤコフ・ザーク先生のアシスタントにレッスンしてもらったときに、シューベルトの、曲は何か忘れてしまいましたが、あるパッセージをすごく速く弾いていたんですね。

すると、「なんでそんなに速く弾くんだ?」と訊かれました。「そのほうが形式がはっきりするから」と答えると、アシスタントの先生が、今でもよく覚えているとても印象的なことを言いました。「形式のことは考えなくていいです」。なぜなら「形式は、考えなくても失われない、ぜったいにそこにあるから」、と。

そのときはひじょうに驚きましたが、今考えると、彼が言ったことが正しかったと思います。楽曲の形式をどのように構成するかを決めるうえで演奏家に何か特別な才能が必要なわけではない。

技術が一定のレベルに達するまではハードな練習をしないといけないのはもちろんですが、その結果としてハーモニーの感覚さえしっかりつかむことができれば、あとのことは自然と達成されるのです。

先ほど吉増さんが触れられたシューベルトの最後のソナタは長い曲なので、構成をまとめるのが難しいと言う人がいます。でもわたしは、個々の要素をうまく一つにまとめようとは考えないほうがいいと思います。

一度自分の中で作品の和声感を完全に感じることができるようになれば、好きなように、自由に弾いていいんです。

 

拍を保つことの大切さ

アファナシエフ これは矛盾した結論と思われるかも知れません。しかし、いったん自分の中で空間と時間の使い方が確立されてしまえば、形式は自然と現れるので、その中で自由にいろんなものが作れるようになるのです。

そのためには、これは芸術でも特に音楽に言えることだと思いますが、いつも拍を保っていることが重要です。ある曲を演奏するときに、仮にその音楽が持っているビート、拍節感を一部崩してある部分を少し速く弾いたら、その後にはまた元の拍節感に戻らなければならない。

吉増さんの作品を読ませていただいて驚いたというか感銘を受けたのが、やはりこの、拍節感に関して自在な感覚を持っていらっしゃることでした。

螺旋形、と言えばよいのでしょうか、詩想がそのような形象を描いて、当初からは思いもよらなかったところまで発展してゆく、そのプロセスに、自分の芸術観との親近性を感じたのです。わたしは今も毎日、朝に小説や詩を書いていますが、吉増さんの方法論に刺激を受け、自分でも試しているところです。

吉増 体の中にある拍節感という今おっしゃったことを聞きながら思い出しましたが、シューベルトはしょっちゅう立ち止まるんですね。

それでアファナシエフさんも、シューベルトを演奏されるときにはシューベルトが立ち止まったときにそれに添って立ち止まっていくように接していく。

それがアファナシエフさんがいわれました、底知れない、生きているようなハーモニーにとどいている……。

と同時に、たとえばフランツ・カフカの『城』、あるいは『狩人グラフス』という、文学作品のうちでもひじょうに深いものとも直結をしていく。

わたしもこんな読み方をしたのは初めてでした。

フランツ・カフカが、例えば『城』を書いていたときに立ち止まったこと、あるいは『狩人グラフス』でも、カフカの「狩人」は、じぶんが死んだときを〝もうあきれる程昔のことだ〟といったり、〝むやみに大きな階段の上にいるようなものさ〟といったりするのですね。

とても深いものを受け取りました。

さらにアファナシエフさんは、シューベルトのこの繰り返しの中で立ち止まるような部分に関して、キルケゴールの「反復」の概念を引いてらっしゃいますよね。そして、キルケゴールの言う反復とは、「長年連れ添った伴侶のような」ものだとおっしゃる。

キルケゴールの中で、違う刹那、すなわち世界が起ち上がって、それがまた立ち止まって動き出すような、そういう反復というか、立ち止まってはまたその「立ち止まり」自体が違う姿になってそして再動き出しているように考えられているらしいと……そういうふうにシューベルトの音楽を聴きながら考えていました。それでまたキルケゴールをさらに深く考えることもできました。