日本列島の諸地域に住む人々の性格や気質、特徴的な行動様式、行動規範を、「県民性」によって語ることは、日常会話のみならず、メディアなどでもしばしば行なわれている。
衣食住にかんする傾向や金銭感覚なども、統計的・科学的な裏付けから、県民の個性や特徴だとされることが少なくない。
たとえば、大阪の人は「がめつい、しぶちん、功利的、活動的、ユーモアに富む」、群馬県人「義理人情に厚い、気性が荒い、カカア天下」、山口県人は「団結心が強い、派閥的、郷土愛が強い」、熊本県人は「質実剛健、強情、きまじめ」などといわれる(祖父江孝男『県民性――文化人類学的考察』より)。
こうした県民性は歴史や風土、地形や気候、人口、産業、宗派など、さまざまな要因をもとに育まれてきたものだと考えられている。しかし、当然のことながら、県民性という言葉が、県の成立以前にさかのぼることはない。
明治維新の廃藩置県によって、「藩」に代わって「県」が置かれたのが1871年(明治4年)で、現在の47都道府県がほぼ定められたのは、1890年のころである。つまり県民性を育むにも、たかだか130年しか経っていないのだ。
古代中世の「国」や近世の「藩」ではなく、近代国家の地方支配の単位を基準に、住民の性格が形作られるものだろうか。
方言や食文化のような地域性は、「県」より、「藩」から理解した方が肯けることが多いともいわれる。日本の地域区分について、その錯綜する歴史から考えていきたい。
廃藩置県が行われるまで、地方政治は藩が支配し、藩領は多くの場合、現在の県よりも細かく分かれていた。明治維新後も存続した諸藩主は、1869年(明治2年)土地(版)と人民(籍)に対する支配権を朝廷に返還した。
これが「版籍奉還」である。
1871年、藩に替わって県を置かれ、3府302県に日本の国土は区画された。それまでの幕藩時代に藩主だった知藩事は、全員が失職して華族となり、役目を終えた。県には明治政府が任命した官僚が知県事(のちの県令。1886年より知事)として派遣された。
地域の新しい行政区分である県は、1871年末まで統廃合が行われ、3府72県に減少。ほぼ現在の47に固まるのは、先述したように1890年のことである。
薩摩藩がほぼ全域を支配していた鹿児島県や、土佐藩が支配していた高知県などは、現在でも独自の気風が色濃く残っているといわれる。
一方で、津軽藩と南部藩に二分されていた青森県は、県域の東西で文化や気風も全く異なるとされる。
また、長野県や千葉県、埼玉県は、中小の藩やその飛び地が分立し、幕府直轄領・旗本領・寺社領が細かく入り組んでいたため、明確な県民性が見出しにくいという見方もある。