LGBT、引きこもり…大江健三郎が60年前から描いた「青年の闇」

いま、氏の作品を読むべき理由
尾崎 真理子, 山口 和人 プロフィール

大江は世界でこう読まれている

山口 世界の中では大江作品はどう読まれているでしょうか?

尾崎 真の意味で日本の小説を世界水準にしたと思うんです。対等という評価を得た。今、欧米のどの国に行っても、『個人的な体験(A Personal Matter)』、『万延元年のフットボール(A Silent Cry)』の翻訳書は大抵ありますし、中国でもかなり読まれているというのを行ったときに感じました。

トルコのオルハン・パムクも、はっきり大江さんの影響を受けている。中国で言うと莫言とか、閻連科さんたちにインタビューしましたけれども、やはりそう聞きましたし、カズオ・イシグロさんも、実は大江さんに大きな影響を受けたということを語っていますね。そういう意味で、間違いなく世界的な作家だと思います。

途中から悪文であるとか、わかりにくいとかさんざん言われましたけど、今読み返してみると、『懐かしい年への手紙』の最後の部分を初めとして、新しい、ものすごくきれいな文章で書かれている作品が多い。

 

もし団塊の世代の方々で、二十代、三十代で読むのを中断したという人が、この全集で初期から、あるいはこれはちょっと気になっているという作品を図書館で読み返すということをされたら、まるで印象が違って驚かれると思います。井上ひさしさんは、これほど大事な作家なのに、これほど理解されていない部分が多く残っている作家はいないとおっしゃっていました。

山口 印象的な言葉ですね。一人の作家を掘り下げて読んでいくことのおもしろさってありますね。

尾崎 そうですね。そこから時代が見えてくるし、散漫な読書はその場限りのおもしろさに終わってしまいかねないところがありますね。これから六十代、仕事をやめた後、何を読もうかと、図書館に毎日のように通う人がすごく多くなっていると思うんです。

山口 家にいづらいからかな(笑)。

尾崎 私なんかもそうですけれども、残った時間を考えるわけです。そうすると、無駄遣いできないとも思う。大江さんの場合は、そこでおもしろそうだなと思ったら、文庫もありますし、評論も膨大にあります。自分の生涯と重ねて読めるという長生きの作家ってなかなかいないと思うんですね。

山口 一人の作家の作品が、あるところに行けば全部そろっているということはすごく大事だと思います。これは大江さんともお話ししていて、全くその通りだとおっしゃったんですが、一人の作家の作品全部が、さわれる形として、実在としてある場所にそろっているということは、とても心強くぜいたくなことなんですね。そうやって目の前にあると読んでみたくなる。

入手困難な小説群を多数収録

尾崎 ノーベル賞の後に、新潮社から十巻ほど大江さんの自選集としての全集が出ましたが、それ以降書かれた作品が実は非常に多いし、重要なんです。ノーベル賞ということで言いますと、世界的にも受賞後にこれほど多くの作品を現役としてコンスタントに残し続けている作家はすごく珍しい。

特に長江古義人を主人公とした『取り替え子(チェンジリング)』に始まる『憂い顔の童子』、『さようなら、私の本よ』、『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつつ身まかりつ』(文庫本タイトルは『美しいアナベル・リー』、『水死』、『晩年様式集 イン・レイト・スタイル』とつながるあたりが、今回、一気に入るわけですね。それと同時に、今まで未刊行だった「政治少年死す」も入ります。

山口 この全集の大きなウリのひとつなんですが、今まで書籍化されてこなかった作品も多く入っています。その最たるものが「政治少年死す」です。

大江さんは、「『政治少年死す』が現在までの短篇集に再録されていないのは、「作家自身の意志によるものではない」(『大江健三郎全作品1 383ページ 1966年6月25日発行 1978年3月25日17刷 新潮社)とおっしゃっていますが、出版社側の自己規制の側面が強かったのではないかと思います。

この作品が書籍化されなかった理由を簡単に振り返ると、深沢七郎が書いた「風流夢譚」という、皇室を舞台とした小説が当時の右翼の怒りを買い、版元の中央公論社社長の家に押し入って家政婦を殺害して奥さんに重傷を負わせるという事件がありました。当時この事件が言論界に大きな震撼を与えていた。

その直後に発表された「政治少年死す」も、社会党の党首を刺殺した右翼を思わせる青年が主人公であることにより右翼の抗議を受け、版元である文藝春秋は、お詫びの広告を出し、本にもしなかったという経緯があります。

「政治少年死す」の前にはその前編である「セヴンティーン」という小説が書かれていて、今回「政治少年死す―セヴンティーン第二部」と続けて読むことにより初めて完結するわけです。全集の意義がそこにあるわけですけれども、尾崎さんは「政治少年死す」をどう読まれますか。

尾崎 非常に思い切った小説だと思います。これはほかの大江作品とちょっと違うと思いますね。主人公の少年が作者に憑依するというか、この作品は、本当に自殺したテロリストの少年そのものが語っているのではないかという迫力がある。初期の青年物とは違う迫力です。つまり、主人公の分身のような本郷の学生ではないわけですね。高校生で、しかも、学業は途中から放棄して右翼活動に一身を捧げたというような。

大江さんは、自分の中には、そういうとてもファナティックな、右翼的なものを理解する力がある、同化するところがあるんだと、おっしゃっていますね。意外なことなんですけれども。

これまで言われてきたように、戦後民主主義者としての大江健三郎という規定があります。これは間違いない。一方でこれも大江さん本人がおっしゃいますが、ユマニストというか、時代の枠組みから離れた、もっと広い大きい立場から小説を書いてこられた。現代政治については非常に客観的であるな、と。通読するとそれが見えてきました。

山口 大江さんの小説はイデオロギーではないんです。教条的じゃないというか、多面にわたって書く。小説家がその登場人物の内面に憑依して書いたものが「政治少年死す」ではないかと僕は思っています。あくまでもフィクションとノンフィクションは別ですけれども、「政治少年死す」の主人公みたいな設定の中で、彼の心の動きがどうだったかということが内側に入るようにして書かれている。

大江さんはこの小説について「保守派からも進歩派からも、様ざまな種類の政治的誤解をうけたが、もっとも端的にいって、僕はこの小説のヒーローに対して、嘲弄的であったことは一瞬たりともない」(『大江健三郎全作品3 381ページ 1966年10月30日発行 1977年11月25日16刷 新潮社)と書いています。これは真情だと思います。

あの小説を読むと、語り手である17歳の男の子を一度たりとも嗤っていない。むしろ可能な限り寄り添って書いている。いつも性的なことばかり考えている、どこにでもいるような17歳の男の子が、次第に右翼的な思想をまとってテロリストに変身してゆく過程が冷静に書かれている。

さらに言えば、今世界を震撼させているISの若いテロリストの内面に重ねる読み方もできます。