まもなく、「キログラムの定義」が変わってしまうかも

究極の精密測定が科学の基準をつくる
中川 隆夫, ブルーバックス編集部

単位が変わると何が起こる!?

ところで、改定が決議されたら、パリにあるご本尊はどうなるのだろうか。

「唯一の定義という重責からは解放されますが、これまで通り測り続ける意味は薄れていません。本当に軽くなっているのか、それを今後100年でも測り続けるのは意義深い」

では、来年の5月、定義改定の日、日常において何が変わるのだろう。臼田さんは軽く笑みを浮かべながら答えてくれた。

「その瞬間には、なにも変わりません。むしろ変わったら困るのです」

 

たしかに、わずかであってもキログラムの数字が変わったら困る。何も変わらず、誰も気付かないのが最も正しい改定だ。

しかしサイエンスの世界では変化が起きてくるだろう。

「長さの定義改定があったときも、レーザー光のようなツールを測定に使えるようになりました。それがナノテクノロジーの実現などに寄与したわけですが、質量の場合もそういうものが出てくると思います。まあ、創薬などがターゲットになってくるでしょうね。テクノロジーが進歩すれば必ずそれをビジネスに使う人が出てくるものです」(臼田さん)

じっさい、原子間の距離を測ることができるレーザー干渉計は、シリコン単結晶体を計測した時ほどの精度は必要ないながら、光学メーカーなどから共同研究の申し出が来ているという。

材料物理の研究からこの計量の世界に入ってきたという田中さんは、産業界から頼りにされ、それに応える使命感に喜びを

感じてきた。「産業界で実際に使われることで感謝される。下支えの面白みを体感できるんですよ、計量の世界は」と田中さんは言う。

「科学者や技術者は、測ることは水や空気みたいなもので、デジタルで数字が表示されるものだと思っている人もいます。だけど、測る行為そのものを突き詰めていく面白さもあるんです。」

「田中さんが言ったように、使命感もあります。再生医療のようにホットな研究に一気に人を投入して研究を進化させる分野もありますが、今この瞬間に世界に10人いればいいという分野もあります。でもその10人は絶対に必要な人材なんです。我々は後者です」(臼田さん)

130年前に作られた小さな白金イリジウムの円柱は、もう少し大きいツルツルの球体シリコンに代わる。しかし、これが100個近くもまたコピーされる必要はないという。

「一流のソリストは10人いれば世界の音楽のマーケットは成り立つそうです。それ以上いても大ホールは満たせない。一般に音楽を楽しむ程度なら、せいぜい音大を出たピアノの先生がいればいい。それと同じで、ソリストの実力をもった球体シリコンはそう多くは必要ないんです」(臼田さん)

なぜ単位改定に取り組むのか

1億分の5ほどの揺らぎがみえる「国際キログラム原器」を、新しい定義によって絶対的なものにする。それが今回の改定の目的だ。「今の物理学では、これ以上の精度のものはないと自負しています」と臼田さんは語る。

キログラムの実態が変わらないように、その定義だけを変える。その瞬間には我々の生活はなにも変わらない。変わらないように変えることの難しさを、田中さんや臼田さんたちは受け止めてきたのだ。

「改定にあたって、各国の意識の違いが現れましたね。ドイツは、定義改定を人類の崇高なミッションだと受け止めています。アメリカは、国家安全保障の観点からみても当然、主体的に関わる。インターネットが、もともと核戦争で司令部が壊滅しても残った基地どうしが通信できるシステムとして開発されたのと同様、単位という基準を他国に依存することはしない」(臼田さん)

「ところが日本では、プロジェクトを始めるにあたって、まず経産省に必要性をどう説明していくか、苦労しました」(田中さん)

日本はまず短期的なリターンを求めがち、ということだ。

「哲学的な意味での科学の価値。そしてそれと対極的にある戦略的なドライさ。その両方が弱いと感じます」(臼田さん)

世界が計測で出した8つの数字のうち、4つを日本が占めていたという技術の高さ。これを支えているのは科学者や技術者だ。科学雑誌『ネイチャー』は、このキログラムの定義改定を、重力波の検出などと並んで、物理学で最も困難な取り組みベスト5に選んだことがある。

なにしろ田中さんや臼田さんたちは、1億分の5よりも高い精度を目指し、ご本尊を上回る安定度を手に入れた。明治以来、国際単位系の改定に日本が関わるのは、今回が初めてだという。

身のまわりにある単位はすべて基礎的な単位と結びついている
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シリコン球は、ご本尊になりかわって扉の奥に鎮座するわけではない。質量は「プランク定数」という物理定数によって定義される。技術があればどこでもそれを形にできるようになる。

ただ、その技術をいま持っているのは、日本、ドイツ、アメリカ、カナダだけだ。定義の改定は、見た目には変化がない。しかし足元では、その時代において最高の技術が投入されている。

臼田さんは、静かに強調した。

「究極の測定は人類に新たな知見をもたらしてきました。それに支えられている『単位』は、科学そのものなんです」

取材協力:

今回お話をうかがった臼田さんによる、単位改定の詳しい解説がブルーバックスでも読めます!

新しい1キログラムの測り方 科学が進めば単位が変わる

1889年のメートル条約決議以来、世界中のあらゆる「重さ」の基準であった「国際キログラム原器」がその役目を終えようとしています。なぜ新しい定義が必要なのか? 単位を決めるとはどういうことなのか? 数億分の1をめぐる計測の世界で展開されるメトロロジスト(計量学者)の挑戦を追えば、そこには「単位」と「科学」の深い関係が見えてきます。

臼田 孝(うすだ・たかし 写真右)

国立研究開発法人 産業技術総合研究所 計量標準総合センター 総合センター長

田中 充(たなか・みつる 写真左)

国立研究開発法人 産業技術総合研究所 計量標準総合センター 顧問

計量標準は、生活、産業、研究などの基盤となる計測という行為とその結果に、信頼性を与えるためのモノサシとなる重要な役割を担っています。計量標準総合センターは日本における国家計量標準機関(National Metrology Institute, NMI)であり、国際的に同等性の確保された計量標準の確立と社会への供給を使命として活動しています。