まもなく、「キログラムの定義」が変わる日がやってくる

究極の精密測定が科学の基準をつくる
中川 隆夫, ブルーバックス編集部

不安定なキログラム原器

ただ、そのご本尊に、微妙な変化が起きているというのだ。その値は約50マイクログラム。1キログラムに対して1億分の5だという。

いや、ちょっと待ってほしい。ご本尊は絶対的な存在であって、その体重が減ったか増えたかはどうやって判断するのだろうか。

「ご本尊を造ったときに、同時に6個の兄弟姉妹を造り、同じ場所に保管してあります。その6個とご本尊を比較したときに、差が出ているのがわかったのです」(臼田さん)

そんなに微少な差を、どうやって比較するのでしょうか。

「天秤を使います。この天秤の精度は100億分の1の感度があるもので、もちろん世界最高のものです」

ああ、天秤だ。小学校の理科室を思い出した。小さな皿の上に、10グラムほどの分銅をピンセットで乗せたもの。先生に、絶対に指で触るな、分銅はピンセットで持てときつく言われた思い出がある。

「ちょうど、指の指紋ひとつの油脂が50マイクログラムです。それと同じぐらいの変化があったらしいのです。もちろん、ご本尊を指で触ることなどあり得ませんから、測定するときに行った洗浄が影響しているのかもしれません」(田中さん)

キログラム原器とそのコピーの重さの比較

ご本尊の体重が減っちゃったのでしょうか。

「減ったのかどうかもわかりません。ほかの6個が増えた可能性もあります。問題の本質は、ご本尊の不安定性です。比較して違いが出たとしても、どちらが正しいと断定することができない。1キログラムの絶対値はわからないのです。世界の約束事として、このご本尊が1キログラムだと決めているわけですから」(臼田さん)

モノとしてのキログラムの基準が130年近くにわたって続いてきたのは、モノだからこそコピーを造って世界中に配布できるという利点もあった。各国の原器は、ご本尊に対して10マイクログラム+とか、−といった注意書きと共に送られている。

 

それを30年に1度くらいの割合で、パリ郊外の国際度量衡局に持ち込み、ご本尊と比較して体重測定をおこなう。ある意味、アナログな方法で超精密なことを行ってきたのだ。今回の改定には、キログラムの安定度を高めるという意味がある。

「科学が進歩していくと、正確さへの欲求が上がってきて、国際キログラム原器の安定度が物足りなくなってきた面もあります。ナノテクノロジーの技術のような小さな値も、惑星の重さのような大きな値も、すべてこの1キログラムを基準にしています。小さい方も大きい方も、この基準の値から離れれば離れるほど誤差は大きくなります」(臼田さん)

「一方で、定義を替えるために要求される精度があまりにも高いという難しさもありました。130年で1億分の5しか変化していないものを替えるには、それ以上の精度、安定性を求められますから」(田中さん)

ゼロから1キログラムを定義するのではなく、今ある国際キログラム原器にピタリと合わせて、定義を作り上げなければならない。すでに世界中の基準はこのキログラムで決まっているのだから――。みなさん明日から1%増量です、となったら、世界はピタリと止まって1ミリも動かなくなるだろう。

「今回、ご本尊の白金イリジウムから、シリコン(ケイ素)製に変えることになったんですが、シリコンの純度を高める技術が進んだことや、計測や分析の精度が上がった。あるいは電気の計量技術の精度がグンと上がった。そういう総合力によって定義を替えられるようになった、とも言えます」(田中さん)

世界で最も丸い球体

田中さんが紹介してくれたように、新たな質量定義によって造られたモノは、シリコン製だ。パソコンなどの電化製品に使われるあの半導体シリコンだ。単結晶シリコンを使って、安定的に並んだ原子の数を数えるのだという。

原子の数を数えると簡単に書いたが、もし人間が数えていたら、数万年以上かかる。たとえてみれば、地球大の球体の中にバスケットボールを放り込んでいって、詰め込んだ数を数えるようなものだという。

そこで、原子が安定して並んでいるシリコン単結晶が登場する。この球体の大きさを厳密に測り、その体積から原子の数を割り出す。この方法でキログラムの定義をつくる国際プロジェクトがスタートしたのは2004年だ。

新定義を作る鍵となるシリコン球

臼田さんをリーダーとする産業技術総合研究所、計量標準総合センターの質量、温度、電気計測の各首席研究員らがこのプロジェクトを支えてきた。

「どこか一国で決められるようなものではありませんから、国際プロジェクトになりました。新しいキログラムの定義は、2011年から2017年までに報告された8つの計測データから決められましたが、そのうち4つに日本が貢献しています。非常に満足する結果ですね」(臼田さん)

計測に使ったのは、超高精度のレーザー干渉計と表面分析システム。直径約94ミリの単結晶球体のシリコンを2000方位から計測したという。

球体の直径を測るためのレーザー干渉計

「1原子間の精度で直径を測っています。大もとの結晶体は、ロシアの水素爆弾を造るのと同じ遠心分離機を使い、同位体の純度を99.99%に高め、ドイツで単結晶化しました。もとは5キログラムあり、そこから1キログラムの球を2個造っています。材料費だけで1キロあたり1億円かかるんです(笑)」(臼田さん)

ご本尊は円柱だったが、このシリコン単結晶体は球体だ。球体の方が精密に体積を測ることができるためだという。レーザー干渉計の中でこの球は自動的に回転しながら2000ヵ所から直径を計測。見たこともないような滑らかな球体だったという。

凸凹は100原子間くらいの長さ。この球体を地球の大きさまで膨張させても、凸凹は10メートル以内に収まる。行けども行けども10メートルの高低差もない地球ほどの惑星が、宇宙のどこにあるだろうか。

「シリコンは熱膨張しますから、1原子間の距離を測るためには、温度を真空中で1万分の1の精度で制御しなければいけません。そこで産総研の温度の専門部署も関わっています」と、臼田さんが付け加えてくれた。

さらに、体積を測る方法以外にも、電気の計測技術も関連してくるのだという。

「すごくおおざっぱに言うと、電磁石で重りを持ち上げる時に流れる電流で質量を測るというような話です。電気量から力を発生させて、1キログラムを決める。この電気を定量化する技術の向上も貢献しているのです」(臼田さん)

産業技術総合研究所では、極めて微細な電流の研究を行っている。これらの研究もやはり今回の定義改定に大きく貢献した。

「それ以上細かくできないものを基準とする。それがまさに単位の理想です。電流の定義も改定される予定ですが、電子1個あたりの電荷量が基準となります。これでやっと理想的な定義になりました」(臼田さん)

メートル条約が創設されたときの単位は、長さ(メートル)と質量(キログラム)だけだった。その後、電流(アンペア)、時間(秒)、熱力学温度(ケルビン)、光度(カンデラ)、物質量(モル)が加わった。今回、質量と共に、電流、温度、物質量が再定義される。

ここまで聞いてきたように、様々な計測技術の向上がそれを可能にしてきた。