Photo by iStock

学歴偏重の会社で、受け入れてもらえなかった「高卒のわが父」の悲哀

現役証券マン「家族をさがす旅」【9】

現役証券マンにして作家の町田哲也氏が、実体験をもとにつづるノンフィクション・ノベル『家族をさがす旅』。

​一時は生死の境をさまよい、入院中の78歳の父。彼は20代の頃、全盛期の岩波映画でカメラマンとして働いていたことを、ひそかに誇りにしていた。

しかし、かつての同僚に昔の思い出を訊ねて回っても、父のことを覚えている人はいなかった。その背景には、高卒の父が当時の岩波映画の空気に馴染めなかったことが関係していたようだ。

「要するに、生意気だったんだよ」

一番父のことを鮮明に憶えていたのが、録音の末村萌律喬(すえむら・もりきよ)だ。末村氏は昭和16年(1941年)生まれで、35年(1960年)に入社した。38年(1963年)、八幡製鉄の委託作品に関わったのが録音マンとしてのキャリアのスタートだ。

父の記憶は、やはり映写室だった。当時は父を含めた3人で、映写室を回していたという。

父はカメラマン志望だったが、岩波映画は学歴を重視していたため、高卒では受け入れられなかった。そこで法政の短大に通いはじめた。昭和38年3月に卒業すると、撮影部に入ったが、39年11月にはフリーになっている。

この間何か作品を手掛けた可能性はあるが、これだけのキャリアでは何も残せなかったのではないかというのが末村氏の考えだった。

「要するに生意気だったんだよ、彼は」

「それはよく、本人もいっていました」

「ボクシングをやってたんでしょ。腕っぷしが強いみたいですぐにケンカするもんだから、誰もついてこないんだ」

「そうみたいですね。対立するようなことがあったんですか?」

「ぼくは録音だからあまり関係なかったけど、よく思ってる人はいないんじゃないかな」

酒が入っていたこともあり、末村氏の口調は遠慮がなかった。

カメラマンとして父がうまくいかなかった理由がその言動にあったことは、父もよく認識していた。当時からとにかく文句の多い性格で、ケンカっ早くてすぐに切れてしまう。末村氏は、実質的に解雇されたに近いのではないかという。誰も父を使いたがらなかったのだろう。

河上裕久も昭和35年(1960年)に演出部に入社したが、父が5年間しか在籍しなかったというキャリアに疑問を抱いていた。映画は技術力の集積だ。もちろん感性も重要だが、スクリーンはカメラ、フイルム、照明、音楽などさまざまな要素が複雑に絡み合って構成されている。

5年でようやく半人前という世界であり、一本立ちするには通常10年はかかる。1年で撮影部を出ていくような人間が、ろくな技術を持っていたと思えないという。映画人として根本的な部分で見方が違った。

映写室にいて撮影部に移ったことを考えても、教える先輩がいなかったことは想像できる。圧倒的に知識が足りなかったはずだ。

当時の岩波は、資金力はないが、機材は常に新しいものを入れていた。そういったものをどう使いこなしていくかが重要なときに、一人で何もできるはずがない。当時はじまったばかりのビデオも詳しくなかったはずだという論調に、説得力があった。

 

同じく「差別」された同僚

昭和36年以降、岩波映画は記録映画の世界において、徐々にその名を高めていく。

『巨船ネス・サブリン』(三菱造船委託)が1961年教育映画祭(PR映画部門)で最高賞を受賞。昭和37年(1962年)には、『ワイドフランジ ヘドロに建つ製鉄所』(八幡製鉄委託)が1962年教育映画祭産業映画部門で最高賞を受賞する。

この頃、徐々に存在感を高めていたのがテレビだった。テレビ製作の立場で、当時の岩波に出入りしていた人の話を聞いてみたい。そんなぼくの問題意識に引っかかったのが、『わが青春 岩波映画テレビ室』(東銀座出版社)という本だった。