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あなたは、親を「安楽死」させる覚悟がありますか

「その時」は突然やってくる

人生の終え方としての終末医療についての関心が高まっている。昨秋出版された解剖学者・養老孟司氏の『遺言。』がベストセラーとなり、安楽死の現場に接した宮下洋一『安楽死を遂げるまで』や、脚本家・橋田壽賀子氏の安楽死宣言とその撤回も注目を集めた。

医学の進歩により、延命治療の技術が進んだが、近年では、延命治療そのものについて否定的な見解も目につくようになってきた。たしかに、いわゆる“植物状態”になって生きていることが、果たして本人にとって幸せなのか、命の意味はどこにあるのかという疑問を提示する立場もある。が、延命治療を全否定することが常に“命の尊厳”につながるのだろうか。

 

安楽死は常に正義か

「医者が人の生死の判断を簡単に下していいものか」と安楽死について懐疑的であった宮下洋一氏は、海外の終末医療を目にし、考えを改めたという。また、日本と海外の延命治療を同等に語ることはできないとも指摘する。

日本の場合、家族からの「そろそろ患者に逝ってほしい」という空気を患者本人が察して安楽死を願い出る可能性があり、「それは、死の自己決定をもとに議論されてきた欧米の安楽死の対極の思想」であり、「今の日本の安楽死を巡る議論には正直、危惧を抱いています」という。(養老・宮下対談(『遺言。』をあらわした養老孟司氏 自身が望む終末医療は?NEWSポストセブン 2018年1月30日)。

また、養老孟司氏は、日本の議論から抜け落ちているものとして、「医師側の負担」をあげる。

安楽死実践者のオランダ人医師と十年後に対面したら、安楽死をしていないとのことで、それは、安楽死の記憶の重みに「耐え切れなくなった」からではないかという。ことほどさように、延命治療の是非や終末医療のあり方は、決して単純に結論を出せるものではないのだ。

上記対談の意義は、“無駄に(という表現自体が問題であると思うが)長生きして意味があるのか”という、昨今主流的にみられがちな延命治療全否定派の立場や、“本人の意思の尊重”といういかにも正論めいた意見を、医学・医療の専門家の立場から相対化した点にある。

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「その時」は突然やってくる

実際問題として、現代の医療現場では、家族や大事な人が危篤になった際、十分に考える時間も与えられず、延命治療をするか否か、性急に結論を出せと迫られることもままある。

大切な人の危篤という、ただでさえも冷静でいられない緊急事態のなか、患者家族への性急な判断要求は実に過酷である。

その際、医師のあるべき態度としては、延命治療を望む家族成員が一人でもいれば、また、万に一つでも助かる見込みがあるのなら、きちんと家族全員の合意をとったうえで、また、どの家族成員が正確に“本人の意思“を伝えているのかを見極め、あくまでも家族の意思を尊重すべきであろう。

危惧するのは、延命治療否定の風潮にのることで、実質、安楽死が本人にとっても幸せと独善的に医師が判断し、助かる命も助からないように医師がミスリードすることだ。これは「命の尊厳」という意味から決してあってはならないことなのである。

終末医療の問題は、いつ同じような場面に直面するかもしれない若者たちにとっても考えるべき喫緊の課題であると考え、自分の親の延命治療を望むか望まないかについて、学生約250名にアンケートを行った(2018年1月23日実施。回答247名、うち女子140名、男子107名)。

賛否両論あったものの、延命治療に賛成学生の意見には、「生きているというだけで安心感があるし、新しい思い出が生まれる可能性もある」(男子)「親をほうっておかない」(女子)「親には少しでも長く生きていてほしいから」(女子)と、親への愛情がにじむストレートな思いがつづられており、私個人の思いとしても極めて共感できた。

家族のケアを、負担ではなく「新しい思い出」ととらえる若者の純粋な優しさが心にしみた。