「生きているハチ公を見た」97歳の元特攻隊員が語る東京の原風景

平成が終わる今だからこそ
神立 尚紀 プロフィール

「直参の跡取りが馬鹿をお言いでない!」

小野さんは、昭和14(1939)年、慶應義塾大学予科(3年制)に進学。母親は中学3年のとき亡くなり、小野さんの日常は、安政生まれの祖母が世話をしつつ目を光らせていた。

「旗本だった祖父は私が3つか4つのときに他界しましたが、祖母は昭和17(1942)年の9月まで生きていて、その祖母が厳しかった。慶應に入ったとき、祖母が煙管で煙草をくゆらせながら、

『慶應の書生、ここへお座り』

と言う。祖母は学生を『書生』と呼んでいました。言われたままに祖母の前で正座すると、

『慶應の書生は軟派が多いと聞きます。あんたも良家の子女に変なことをしたら承知しないからね』

そこで反抗心が湧いてきて、

『良家の子女じゃなければいいんですか?』

と言ったら祖母がほんとに怒った。吸っていた煙管を火鉢に叩きつけると、

『直参の跡取りが、馬鹿をお言いでない!』

と、えらく叱られた。祖母は、私がなにかヘマをやるたびに『直参の跡取りが――』と言ってましたね」

昭和18年、慶應義塾大学校門前の風景

昭和初期には、まだ江戸時代の価値観を拠りどころにする世代が存命だったことは、記憶にとどめておいてよいと思う。

小野さんの祖母は厳しい人だったが、それでも、当時の民法上、家族のなかで戸主(小野さんの父・清一さん)の次に位置する「跡取り」である小野さんを叱るときは、「お言いでない」と言い、跡取りではない小野さんの姉を叱るときは「言うんじゃない」と、言葉遣いをきっちり分けていたという。「お言いでない」の方が「言うんじゃない」よりもやや丁寧な言い方だから、「直参の跡取り」に対して一定の配慮をしていたのだ。

 

昭和16(1941)年12月8日、日本はアメリカ、イギリスをはじめとする連合国と開戦。太平洋戦争がはじまった。真珠湾攻撃を皮切りに、日本軍の連戦連勝が報じられたが、それでも戦争の実感は小野さんにはなかった。戦争を最初に身近に感じたのは、昭和17(1942)年4月18日、米空母「ホーネット」を発艦した、ジェームズ・H・ドゥーリットル陸軍中佐率いるボーイングB-25爆撃機による、日本本土初空襲のときのこと。

「昼の12時ぐらいだったと思います。中央本線の大久保駅に入ろうとしたところで突然、空襲警報が鳴った。空襲警報なんてはじめてのことですし、避難しなきゃというより、なんで米軍機が?という気持ちの方が強かったですね。空を見上げると、頭上を双発機が6機ぐらい飛ぶのが見えました。

最初は日本軍機だと思ったんですが、どうも音が違うんです。キーンと金属的で、いつもの日本機よりも調子がよさそうな、澄んだいい音でした。駅にはかなり人がいましたが、誰も逃げようとせず、ただ空を見上げていました。

ホームに上がって飛行機が飛び去った方角を見ると、市電の早稲田の車庫のあたりから茶色い煙が斜めに上がっているのが見えて、ああ、あれが米軍機だったんだな、と。これが戦争かと思いましたが、意外に恐怖心は湧かなかったですね」

昭和18(1943)年9月、慶應義塾大学法学部を繰り上げ卒業した小野さんは、一般の大学、高専卒業者から飛行機搭乗員の指揮官要員を募集する「第十三期飛行専修予備学生」を志願。20倍ともいわれる難関を突破して同年10月、三重海軍航空隊に入隊する。

昭和20(1945)年4月、谷田部海軍航空隊にて。小野さんは海軍中尉

「自分たちが行かなきゃ、という気持ちはありましたが、国のためにと大上段に構えるんじゃなく、はっきり言えば、陸軍に入って鉄砲を担いで歩かされるのがいやだった。兵役は義務でしたから、遅かれ早かれ軍隊に行くことは避けられない。だったら海軍に行こうと。機械いじりが好きだったから、飛行機にさわれるチャンスだとも思いました」

そして猛訓練を経て零戦搭乗員となった小野さんは、二度にわたり特攻を志願したものの、出撃することなく谷田部海軍航空隊で終戦を迎えた。

昭和20年、零戦五二型丙に搭乗し、発進直前の小野さん

戦後は、凸版印刷株式会社に勤めたのち、昭和31(1956)年、海上自衛隊に入り、ふたたび飛行機の操縦桿を握ることになる。昭和45(1970)、退官後は全日空でボーイング737のフライトシミュレーター教官をつとめ、昭和57(1982)年に退職するまで、パイロットの養成、訓練につとめた。飛行機とともにあった人生。しかし小野さんは、それでも、

「飛行機より電車の方が好きです。だって、路面電車だけ見ても、東京、大阪、仙台、みんな違う。バリエーションが広くて面白いじゃないですか」

と言う。

――まさに「三つ子の魂百まで」なのである。