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シベリア「生死不明の夫」から送られてきた手紙の物語

戦後の悲劇がそこにある

生死不明の夫から届いた一通の手紙

目の前に、整然と並んだハガキを見て息をのんだ。

「・・・・。どうしてこんなものが。よく残ったな」

2016年2月のことだ。それは元南満州鉄道株式会社(満鉄)職員で、シベリアに抑留されていた佐藤健雄さんと日本で健雄さんを待つ妻・とし子さんと子どもたちが交わした52通のハガキだった。「これはいける。新聞の1面でいける」。筆者はそう思った。

始まりは1952年夏、それまで生きているのか死んでいるのか、どこにいるのか分からなかった健雄さんから、帰国して待っている家族のもとにハガキが届いたのだ。

「家族全員、無事に本土に帰国しているだろうか」

とし子さんはすぐに返事を書いた。

「久々にうれしい便りを預かりました。(中略)子供達、私も元気です。(同)これまでの苦労はいかばかりかお察し下さい。一日も早くお元気でお帰りの日を待っております。」

さらにつづる。

「どんなに苦しい時にもどこかで貴夫(あなた)が見守って下さる様で力づけてくれます。この子供達の成人した所を見て頂き度(た)いばかりで今まで生きてきました」

1952年、福島県内で暮らしていた佐藤とし子さんら家族が、抑留されていた夫・健雄さんに出したハガキ。「一日も早くお元気でお帰りの日を待っております」などとある

とし子がつづり、子どもの写真を送った。健雄から返信が来た。「想像以上に立派に成長しているのを見て、真に嬉(うれ)しい。母性愛に敬意を表する」

 

第二次世界大戦が終わった後、ソ連は満州などにいた日本人およそ60万人をソ連やモンゴルに抑留した。その範囲はソ連領内全域に及ぶ。本来は「ユーラシア抑留」だが、慣用として「シベリア抑留」と言われる。それは最長11年に及びおよそ6万人が亡くなった。その概要は以前、この欄で紹介した通りだ。

抑留者の帰国は46年12月に始まった。だが米ソ冷戦のあおりを受け、たびたび中断した。最後の引き揚げ船「興安丸」が健雄さんたち1025人を乗せて舞鶴港に入ったのは1956年、暮れも押し迫る12月26日のことだった。多くが軍人だったが、民間人もいた。健雄はその一人だ。

抑留者と日本内地の家族などは、往復ハガキのやりとりができた。ただ、ソ連は国際法違反である抑留の実態を知られることを避けるため、抑留者が文章や絵などを持ち帰ることを厳しく禁じた。引揚船に乗る寸前、隠して持ち帰ろうとした文章がソ連兵に見つかり、帰国が取りやめになった人もいた。

筆者は10年以上、シベリア抑留の取材をしている。抑留者と家族のハガキは何通も見たが、一家族で52通ものハガキに接したのは初めてだ。ましてうち35通は家族が出したハガキ、つまり健雄さんがソ連から持ち帰ったもの、ということに驚いた。

どうやって隠し通したのかは分からない。最後の引き揚げ船だったため、チェックが緩かったのかもしれない。

ともあれ、およそ60万人が拘束され、約6万人が亡くなったシベリア抑留は、日本史はもちろん世界史で語り継がれなければならない史実だ。しかし日本政府やアカデミズムによる実態解明は絶望的に立ち遅れてきた。

長期抑留者がどのようなことを考え、どう生活していたのか。留守家族はどうだったのか。そうしたことを伝える資料は少なく、体系的な研究もない。それゆえ、佐藤家の52通は貴重な1次資料といえる。

死と隣り合わせの極限状態、自身も生命の危機に直面しながら、遠く離れた家族を励まし続けた健雄さん。大黒柱なしで5人の子を懸命に育てながら夫の無事を祈ったとし子さん。父を慕った子供たち。

ハガキからは、歴史に埋もれかけていた戦争の実相と、それに翻弄(ほんろう)されながらも乗り越えていった家族の姿が浮かんできた。詳しくは今年1月刊行の拙著『シベリア抑留 最後の帰還者』に記したが、本稿ではハガキの一部を紹介したい(カタカナを平仮名にするなど、原文の表記を一部改めた)。