森友文書事件を「書き換え」問題だけに限定してはいけない理由

中立・公正な日本官僚制の再建に向けて
金井 利之 プロフィール

日本官僚制に残る「一縷の望み」

「書き換え」問題の真相を探れば、本省や政権から見れば、「書き換え」なければならないような文書を、現場の近畿財務局が起案・決裁したこと自体が重要である。

つまり、本件の国有地貸借・売却が、現場の処理として特例であったことを、決裁文書など最も重い公式の公文書に留めたことである。

確かに、特例の取引を、現場の近畿財務局では止めることはできなかったかもしれない。しかし、それが特例であることだけは、現場官僚は、現世および後世の日本人に残したのである。

筆者はここに、「一寸の虫にも五分の魂」という現場の財務官僚の矜持と良心を感じ取る。

特例的な取引は、現世・後世の批判を受けるためにも、敢えて公式の記録に残すことは重要なのである。特殊な事情を記載した文書をもとに、現世・後世の国民はその是非を判断することができる。それは是となるかもしれないし、非となるかもしれない。

いずれにせよ、現場官僚は、特例の取引という事実を、現場の胸の中に収めて、「黒を白」とばかりに、是が非でも正当化するのではなく、現世・後世の批判を仰ごうとしたものと考えられる。

こうした現場の矜持が残されていることは、まだ日本官僚制にも、健全な良心が残されていることを意味する。

この点は、我々国民にとっては大きな財産である。1990年代の政治改革・行政改革と内閣機能強化、2000年代以降の官邸主導・政治主導、小選挙区制と一強支配、内閣人事局によるキャリア官僚の萎縮と忖度の流れのなかでも、なお、この国の官僚制のなかには、まだ「一縷の望み」が残されていることを意味していよう。

上記の通り、「書き換え」問題は、こうした現場の矜持を潰し、最初から「書き換え」すら必要のない文書を、現場に作成することを求めるように、官僚制内部への統制強化がなされる恐れもある。

そうではなく、現場に残された、現世・後世に是非を仰ぐという、公正な行政マインドと現場職員の矜持を、いかに保ち、いかに育てるかが、我々国民が問われているのである。

 

本省官僚は「正常」な判断ができている

「書き換え」を財務省理財局など、国政為政者のどの範囲で行ったのか、誰が指示・忖度したのか、それを誰がどこまで知って了解していたのか、などの真相は、本稿執筆時点では不明である。

しかし、財務省の決裁文書が「書き換え」がされたのは、少なくとも確かであるから、財務省本省が関わったのは間違いない。そのこと自体は許されるものではない。

この点に関しては、筆者はこれ以上論じるつもりはない。既に世論になっているからである。

しかし、その問題を超えて、筆者は、本省財務官僚に、一分の良心が存在していることを感じ取る。

なぜならば、本省官僚は、「書き換え」前の決裁文書は、「書き換え」なければならないような、特例または異例の内容があると理解するような、まだ「健全」な精神と判断力があったことを意味するからである。

つまり、とても国会や世論には見せられないような、特例の取引をしたという事実が、「書き換え」前の決裁文書に書いてあった、と判断したからである。だからこそ、「書き換え」をして、国会議員などに提出した。

人に見せられないことをしたときには、見せたくないという羞恥心があるということである。

もちろん、建前からすれば、人に見せられないことをすべきではないし、見せられないことをしたからと言って隠すことは正しいことでもない。その意味では、財務省の行動は正当化できない。

とはいえ、少なくとも、それがとても見せられないものであるという、「正常」な判断ができたのである。

もし、財務省本省官僚が、いかに特例の取引をしても、何ら問題ないと思うようになっていたら、どうであろうか。

そうなれば、「書き換え」前の決裁文書を見ても、何とも思わないかもしれない。それゆえに、「書き換え」をする必要すら感じないかもしれない。

もっと言えば、国会での理財局長答弁においても、正々堂々と「異例の取引をした、行政とは裁量的に個別取扱するものである、何が悪い?」と居直るかもしれない。

このように、本省官僚が、恣意的で不公正・不公平な行政をして、何ら恥じるところのないことになれば、この国の行政官僚制は崩壊する。