国から見捨てられ命を絶った、とある「母子避難者」の悲劇

あの日までは、普通の家族だったのに
青木 美希 プロフィール

住まいが不安定だという問題が常に重くのしかかった。というのは、住宅提供は最大2年間で、1年ごとの延長を可能とする災害救助法に基づいている。そのため、1年ごとに延長するかどうかが判断されるからだ。

期限が迫るたびに家を探し、「1年の延長が決まりました」と言われてホッとすることの繰り返し。福島第一原発事故を受けて超党派の議員立法で全会一致でできた「子ども・被災者支援法」(2012年6月施行)は、「被災者一人一人が居住、移動、帰還の選択を自らの意思によって行うことができるよう、被災者がそのいずれを選択した場合であっても適切に支援するものでなければならない」と定め、国が移動先の住宅確保の施策を講じるとある。法に期待し、公的住宅に安定して住みたいとも望んだが、「できません」と断られ続けた。

住宅提供打ち切りで見知らぬ土地に引っ越しを余儀なくされたばかりの男性=2018年3月、板橋(photo by The Asahi Shimbun)

「東京は日本一豊かなまちのはずなのに、こんなに冷たいなんて。前に住んでいたというだけで東京に来てしまった。どうして北海道や新潟に避難しなかったんだろう」

東電の賠償金も手元には来なかった。避難指示区域外からの避難の場合は、区域内と違って東電からの賠償が毎月支払われることはなく、母親と子ども一人で合計80万円程度だった。だが、それも夫が「郡山に残る自分たちに将来、治療の必要が出るかもしれない。治療費に充てる」とほとんど渡してくれなかった。

夫の罵倒と暴力、自分を責める日々

月に数度、家事や息子のために郡山の自宅に戻った。節約のために常にバスを使った。2012年春、息子を東京に呼び、自費で子どもたちに内部被曝を測るホールボディカウンター検査を受けさせた。娘からはセシウムが検出されなかったが、郡山に残っていた息子からはわずかだが検出された。息子はこのとき、14歳だった。

「ちょっとぐらい(セシウムが)あっても、大丈夫なんだってよ」

強がりのように聞こえた。元気がなかった。

息子が郡山に帰る別れの際には、バスの席を確かめてから降りてきて、一緒にたまたまそこにいた野良猫を見たり、たわいもない話をした。息子は「楽しかった」と妹に言って、戻っていった。

息子を早く東京に連れてこなければ、と思った。

息子は中学3年生の3学期に、「お母さんと妹と暮らす」と女性のもとにやってきた。だが、夫とは折り合わなかった。

 

「放射能の心配をしているのはマイノリティ。民主主義の世の中では、10人のうち9人が『影響なし』と思っていれば、それが正しいんだ。『危険だ』という意見だけを取り上げてワーワー言ってるおまえは反社会的な存在だ」

「おまえは逃げたんだ。家庭をめちゃくちゃにした。訴える。離婚する」

「国を信じられないなら日本には住めない。海外でも宇宙でもどこにでも行ってください」

事故前は、それなりにうまくやってきたつもりだった。

夫も、子どもたちと暮らせずに寂しい思いを私にぶつけているんだ、と思った。時に殴られることもあったが耐えた。私が間違っているのかもしれない。我慢すればよかったのかもしれない……。

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何度も悩む。毎晩涙が出る。夫にも子どもにも、ことあるごとに「ごめんなさい」と言うようになった。

それでも、地震があるたびに「福島第一原発は大丈夫かな」と恐怖に怯える。燃料取り出しの目途も立っていないのに戻れない、と貫いた。

やがて、夫に生活費を止められた。兵糧攻め……。

女性は、平日、週末の2つの仕事に加え、週末の仕事をさらに増やした。

いつしか眠れずに心療内科に通うようになった。「お守りに」と睡眠導入剤を処方された。夫に悲しい言葉を投げかけられた夜、薬を飲むようになった。通院も、節約のためバスではなく自転車で行くようにした。