教授はエレベーター、ヒラ医局員は階段ダッシュ
教授回診当日、医局員は病棟で患者さん全員分のカルテと検査結果を用意して、ずらりと並べておく。そして病棟長がプレゼンをして、適宜担当医が教授の質問に答える。
検査結果が揃ってないと教授の雷が落ちる。ここで重要なのは、自分の上司である病棟長だ。病棟長が情に厚い人だと「私の指導が至りませんでした」などと言ってかばってくれる。だが、阿諛追従(あゆついしょう)の輩(やから)だったりすると、「私のミスではありません。完全に佐々木のミスです」などとあっさり裏切られる。私は何度もこの憂き目に遭った。
さらに肝心なことは、この場で教授が「この薬を投与しろ」「このように処置しろ」と指示したことは絶対に守らなければならない。意味がなくてもやらなければならない。やらなかったらどうなるか?
たとえば、教授がブドウ糖を投与しろと言ったとする。ブドウ糖は水みたいなものだ。
「ブドウ糖の投与なんてやめましょうよ」
「佐々木、それはダメだ」
「どうしてですか? 意味ないじゃないですか」
「万が一、治療経過が悪くなったら、絶対におまえのせいにされるぞ」
「マジですか?」
「おまえは教授の指示を無視した反逆者、謀反人の烙印を押されるんだ」
「まさか?」
「ブドウ糖の不手際を一生言われ続けて、名誉挽回は難しい……」
「ヒエーッ!」
大学病院は怖いところなのだ。
病棟長がプレゼンをしている間、看護師さんたちは各患者さんたちに、「今日は教授回診がありますから病室にいてください」と触れて回る。回診の直前、教授が患者さんの傷をすぐに見ることができるように、ガーゼや包帯などを外しておく。
プレゼンが終わると、教授はズラズラと医局員を従えて回診をする。いわゆる大名行列である。私が今までお仕えした教授は全員患者さんに優しく、患者さんに寄り添う教授だった。
ところが、診療科によっては研究第一の教授もいる。患者さんに声もかけない、見向きもしないという教授がいることも事実だ。大学病院に入院した患者さんにとって、教授とは寄る辺となる唯一の人かもしれない。ベッドサイドでせめて一言でも声をかけてあげてほしいと思うのだが。
教授回診の途中、病棟間の移動にはエレベーターを使うのだが、乗り方にマナーがある。
たとえば、教授回診がA病棟の10→9→8階の順だとする。1階ずつ降りるときは、教授も准教授も丁稚も小僧も全員階段を使う。その後一気に8→4階に移るとき、お偉方はエレベーターに乗る。エレベーターに乗っていいのは教授、准教授、講師と医局長だけだ。これにうっかり研修医が乗ってしまったりすると大変だ。あとでボコボコにされる。
教授たちがエレベーターに乗ってドアが閉まると同時に平の医局員は8階から4階まで階段を走って大慌てで移動する。「ぜーぜー」というほど息が切れる。
教授が4階に到着するまでに、平の医局員は次の病棟へ先回りし、すぐに回診が始められるように準備しておく。次にB病棟の1階から5階に向かう場合も同様に、教授たちはエレベーターで、平の医局員たちは階段を走って上るのである。

私もあのような「軍隊式」で「封建的」な体制の中で育ったから、「大学病院っておかしいよな」とは思いながらも、それが当たり前のものだと思っていた。ところが他大学の先生方との交流で酒を酌み交わすうちに、教授回診のやり方は様々だということに気付いた。
K大学病院の外科はもっと封建的で、平の医局員は講師以上の先生に話しかけてはいけないのだという。これは、K大学病院の先生から直接聞いた話なので間違いはない。
ところがS大学の内科ではそんなことはなく、いたって民主的な回診風景なのだという。教授から小僧まで身分の上下なくエレベーターに乗ってよい。教授が最後に乗った時重量オーバーのブザーが鳴り、「僕は階段で行くよ」と教授が仰るので、医局員全員で和気藹々と階段を上ったという。
I大学の脳神経外科の教授は東大出身にもかかわらず、権威主義的なところがなく、極めて庶民的だったそうだ。医局員には普段通り病棟で仕事をさせ、そこに教授が一人でひょっこり現れ、経過を説明させて、担当医2、3人だけを連れて回診し、一人で教授室に戻ったという。私もそのような教授の下で仕事をしてみたかったなぁ。
最後に余談をもう一つ。
私がいた外科の教授はブラック・ジョークが好きだった。ある日の回診後、教授が振り返って言った。
「さっきの症例、誰がオペしたんだ?」
「○○先生です」
「へぇ~。悪くはないんだけどね……日光のひとつ手前だな」
今、教授がおっしゃったのはジョークなのか? 一同、意味がわからない。教授が続けた。
「調子っぱずれの歌を犬吠埼(銚子のはずれ)という。それと似たようなものだよ」
う~む、まだわからない。
「あの~、私がお答えしてもよろしいでしょうか?」
後ろの方から、鉄道マニアのA君が恐る恐る申し出た。
「A君、わかったのかね?」
「イマイチ……ということでしょうか?」
鉄道マニアのA君は、日光の手前に今市があることに気付いたのだった。