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日本人はどこから来たのか? 平昌五輪で目にした忘れ得ぬ光景

あなたを駆動する「物語」について⑨
赤坂 真理 プロフィール

弔うことは祝うこと

日本人はどこから来たのだろう? と考えた。こんなときに、世界に向けて歌える民族の歴史はあるのか。

ない。

憲法にあるように、天皇を「国の象徴」だと思ってみる。そうすると、日本人は、自分たちがどこから来たかを知らない。

天皇の祖先が天から下ってきたことになっている。そして日本列島の土着の神様たちが、国を譲った。

ということは、日本人は天の神と地の神の人間とのハーフということになる。地理的にどこから来たかを知らない。

それは本当を言えば、根源的な心もとなさなのだ。

自分がどこから来たかを知らない。

どこからか来たのか、列島にもともといたのかも。

が、社会の大勢はそのことを問わない。なので自分も放っておく。集合的にこうなっている民族はあんまりいない。

神話と人間の出自をないまぜにされているのが、我が国の天皇なのであり、実はそれにいちばん引き裂かれているのが、当の天皇なのではという気がしてならない。先の「おことば」にも、そんな苦悩がにじんでいた気がしてならない。

天皇の最初の先祖は、天から舟で降りてきた、とある。

天皇をあくまで「象徴」と読み解いてみる。日本人一人ひとりの話として。

これを水平軸にとってみるなら、あのアリランを歌う男のようだったのかもしれない。流れ着いた人。そんな想像力を持ってみる。

それもいろいろな場所から。海流と風に運ばれて。思いもかけない遠い場所からも。

そして温暖な緑の島に根を下ろし。やむなく、あるいは、そこを愛して。そこは行きたかった場所とはちがったかもしれないし、行きたかった場所よりよかったかもしれない。前にいた場所にいられなくなったのかもしれない。すべてそれはそれで、人間が生きようとした尊い歴史だ。

日本列島は、よく見ると絶妙なセーフティネットのようにも見え、波に翻弄される人が、流れつきやすかったのではと思ってみる。海から見れば、人間など木の葉くらい。そしてこんもりと盛り上がった、緑の島。

閉会式には、「弔いの儀式」というものがあった。

それは葬列にも祭祀にも似て、たしか二列の隊列で、中には仮面をつけた者がいた。仮面をつけた者は、そのとき神となる。

弔いとは、特定の誰かの葬儀ではなく、今まで地上にいたすべての人のためだという解説が、TV放映ではあった。

どこから来たかを、永遠にさかのぼって知っている人は、誰もいない。まして魂のレベルでそれを知る者はいない。

だからこそ、死者を敬わなければならない。まったく見知らぬ赤の他人の誰かがいて、自分がいるのかもしれない。

今まで地上に生きていた人、誰一人が欠けても、自分は今、ここで、この自分として、この儀式を目撃はしていない。

だから、すべてのものを弔う。

それはすべてのものを祝うのと同じことだ。

それを見せられたのが、平昌オリンピックの最大の成功だったと、わたしは思う。

(第10回はこちら

作家・赤坂真理さんの連載「あなたを駆動する『物語』について」バックナンバーはこちらhttp://gendai.ismedia.jp/list/author/mariakasaka