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日本人はどこから来たのか? 平昌五輪で目にした忘れ得ぬ光景

あなたを駆動する「物語」について⑨
赤坂 真理 プロフィール

オリンピックとは「国家」という個人を超えたものを背負ったとき、個人がどう個人を超えるか、あるいはどうつぶれるか、そんなことを、見て一緒に体感する、近代の儀式である。

国家は仮想である。

通貨も、仮想通貨が世をにぎわせているが、通貨からして仮想である。

数字がそもそも、想像力そのもので実体はない(「1」と「1個」は、ぜんぜんちがう)。

そうした仮想が、何重にも交錯するところに、信じられないほどうつくしいものが現れたりする。

それを見て心が動くことは真実である。

逆に、心が動くことのほか、ほとんどすべてが仮想である。もし、競技者が、どこの誰かわからないように変装(仮装?)して競技をしたら、その感動はどのくらい減る、あるいはもしかしたら増える、のだろう?

 

パラリンピックは競技のつくりかたが悪い

この原稿を書いている時点(3月16日)でパラリンピックの会期中だが、人はオリンピックのことをほとんど忘れている。

オリンピックのことなど忘れて、日々の「戦場」に戻っている。パラリンピックに至っては、ほとんど観ない。

それはパラリンピアンが悪いのではなく、競技のつくりかたが悪い。

まったくちがう想像力でつくらないのなら、語らないなら、パラリンピックはただの劣ったオリンピックであり、それをわざわざ観たいとおもうひとは少ない。障害者はただ「障害があるのにがんばってる」人にされ、誰かに根本的に新しいヴィジョンを見せることがない。

繰り返すが、それは競技のつくりかたや伝え方のほうが貧しい。

また、オリンピックのスーパーアスリートたちは、その競技によって、健康になるよりは障害者になることとつねに隣り合わせであることも、忘れないほうがよいように思う。

大怪我や恐怖を克服してメダルをとった人は、決して美談ではなく、それで彼が一生動けなくなった可能性のほうが高いのだ。

忘れ得ぬ光景

そうしたすべてを超えて、忘れ得ぬ光景を、わたしは平昌オリンピックに見た。

開会式のアリラン。
閉会式の弔いの儀式。

小舟に乗った人が流れてくるシーンから、平昌オリンピックは始まった。

韓国の北部の地。分断された国境線にも近い、ごく寒い土地。ただの小さな漁村や山あいの村だった場所に、とつじょ、祝祭空間が開けた。

そのメインスタジアムに、小舟に乗った一人の男が流れてくる。

彼は流れに翻弄されている。その中で、必死に舵をとっている。まるで、かの国がこうむってきた受難の歴史を象徴するように。

彼はアリランを歌い出す。朝鮮民謡。民族のうた。77歳、現役最高齢のアリラン歌手だという。

最初の一声で魅せられた。

あんなアリランを、いや、あんな歌を、聴いたのは初めてだった。わたしは朝鮮(韓国)文化というものに、初めて強く惹かれた。

空気の粒子が変わる。

細かく振動して、ふつう聴覚がとらえないような音域や振動までを、皮膚や髪や産毛や、知らないどこかがとらえていて、しびれたように、その場から動けない。

これはホーミーに似てる。

かろうじて残っている理性が、似たものを探しだす。倍音が同時に出る、モンゴルの特殊な歌唱法。そんなものを、単なる民謡と思っていたものの中に見出すとは思わなかった。

そうか、シャーマン文化だったんだ、朝鮮半島は。

頭でなく理解する。

理解は閃光のようで、こうも思う。

日本もそうだ。

この音の感じは日本の雅楽や声明や祝詞の中にもある。

理解は、知識や頭を超えた次元でやってくる。

何も知らない人にでも本質を伝える力。それが歌の力だ。芸能の力だ。

民族の歴史や数万年の時間、つながり、などを、頭でなく理解させられるのが芸能の力である。それで、つらいときにも、人類は歌を歌い、舞を舞ってきた。あるいは、つらいからこそ。