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日本人はどこから来たのか? 平昌五輪で目にした忘れ得ぬ光景

あなたを駆動する「物語」について⑨
赤坂 真理 プロフィール

原点は「遊び」

いちばん人間的なこととはなんだろうか?

「心が動く」ことではないかと思う。

新しい競技ほど発祥と近いのでよくわかるが、スノーボードのエアリアル競技などは、ゲレンデでウザがられながら遊んでいた人たちが始めたことであることを忘れてはいけない。

ゲレンデで、音楽をかけて踊りながら階段のレールを滑ったりして「やめなさい」と言われていた人たちなのだ。新しいことを始めるのは、こういう人たちなのだ。新しい競技ほど遊びの中から出てくる。こういうことが、忘れられてほしくない。きっと、忘れられてしまうのだが。

「育成ノウハウが出来上がってきて、日本は今回のメダルラッシュにつながりました」

とニュースで言っていた。いやな気持ちがした。「強化人間の育成プログラムが完成しつつあります」と言われている感じがしたのだ。

メダルラッシュは、ひとつにはロシアが国としては出場を止められたからいうこともあると思う。しかし、「育成プログラムの完成」と、「組織的ドーピング」の想像力は、紙一重なのだ。

そして組織的ドーピングは、企業のデータ改竄とも似ている。どちらも、実力以上を見せようとする。かさ増しなのだ。

その涙ぐましい無理は、何を守ろうとしているのか。「近代」という言葉が頭に浮かぶ。

 

オリンピックは武器を持たない戦争

一体「メダル」ってなんなのだろう? コインそっくりの、「メダル」というものは。なぜあれが、人をそんなに駆り立てるのか?

いや、コインそっくりというより、コインなのだ。「金メダルをかじる」パフォーマンスは、元はコインが本物かを確かめる行為だった。

それはコインでなければならず、トロフィーじゃだめなんだ、まして月桂冠で満足する現代のオリンピアンもいなければ、観客もいない。

メダル(コイン)が手に入ると入らないとで、選手の立場は雲泥の差だ。それは国の立場でもある。国の面子を立てもつぶしもするから、選手はメダルが「悲願」だ。

しかし誰の悲願だろう。

コインがなければ、ただの名誉にすぎない。「戦果」というのは、名誉では足りない。勝ったらお金(コイン)をとらなければならない。勝ってもお金=メダルがとれない戦争は、国民に嫌われる。たとえば日露戦争。日露戦争の戦果がなかったことが、日本をどういうことに駆り立てたか。

そうだ、あと、「メダル」といえば、軍隊の勲章の意味もある。あらまあ、オリンピックってなんて、わかりやすく近代というものを表象しているのだろう! 武力と経済が表すステイタスが、近代の指標なのかもしれない。

オリンピックは、そのすみずみまで、戦争のイメージが浸透しているし、戦争のメタファーを使ったほうがわかりやすい。

「オリンピックは平和の祭典」と言うが、「オリンピックは武器を持たない戦争」と言ったほうが、よほど本質が腑に落ちる。

しかし、だからこそ、オリンピックを見ることに人々はエキサイトするのである。それが「戦争」だから。

でなければなぜ「日本人の」メダル数にこだわるだろう。参加するのは個人でありながらなぜ「日本の」ユニフォームを着るだろう。

そのことをちゃんと認めたほうがいいと思う。人間は、戦争のメタファーが大好きだ。平和主義の人でも。

それを認めたうえで、平和を構想しないと、平和はただの空論になってしまうし、なってきた。