最後の無頼派投手・盛田幸妃「病魔との闘い」を支えた妻との物語

脳腫瘍から復活した奇跡のリリーバー
松永 多佳倫 プロフィール

生意気小僧がセットアッパーとして大ブレーク

盛田は、北海道西南部にある鹿部町で16代続くホタテ漁の網元の長男として生まれる。1987年、函館有斗高から大洋にドラフト1位で指名されて入団。4年間はほとんどファームに過ごしていたが、ルーキーイヤーの5月には一軍に上がっている。

「一軍に行って驚いた。35歳以上のベテランがおおぜいいる。ここは産廃処理場かと。会う先輩ごとに『今日から上にあがった盛田です』と挨拶するのが面倒でね。バスは何分前に乗って、どこに座ったらいいのかと余計なことに気を遣っているから自分の力が発揮できない。ストレスだった。早く打たれて二軍に帰ろうと思ったもん

高卒ルーキーで念願の一軍。でもそこにはプロの厳しい縦社会があり、ずっとお山の大将で過ごしてきた盛田にとって居心地がいい場所ではなかった。

「ファームにいた4年間、グラウンドキーパーから寮長まですべての人が俺のことを、人間的にダメって言っていたから」。

歯に衣着せぬ性格の盛田はとにかく思ったことをずばずば言ってしまう、18歳のクソ生意気なガキとしか見てもらえなかった。

ファームでピンチになりコーチがマウンドへ行くと、「なんだよ〜、こんなときに……。やっと気合いが入って面白くなるところなのに、やる気なくすなぁ」と高校卒業したばかりの小僧が不満げにぼやけば、はるかに年上のコーチは面白くなかろう。ファームでは何試合も好投したが、盛田の態度が気に入らないコーチが上に推薦することはなかった。

転機が訪れる。

 

5年目のオープン戦、一軍に帯同していたが登板機会が回って来ず、二軍で調整登板をしていたときだ。この年のキャンプでは身体もできスピードも出てきたので、少し握りを変えてシュートの練習をしていた。今でいうツーシームだ。二軍戦でこのシュートを試しに投げたところ、誰も打てない。みんな空振りかどん詰まりのゴロ。この場面をたまたまコーチが見ており、すぐさま一軍入りとなった。

この1992年、横浜は開幕から低迷し、監督の須藤豊は途中休養する。後を継いだ江尻亮は、須藤が先発投手として期待をかけていた盛田を中継ぎに起用。抑えの佐々木主浩とのダブルストッパーシステムを構築して、投手陣の立て直しをはかる。

このもくろみは見事に当たり、盛田はセットアッパーとして一躍ブレークする。この年のオフ、球団名は横浜ベイスターズと改名されたので、横浜大洋ホエールズ最後の年である。

「抑えの切り札とセットアッパーは試合に出ていくときの状況が違うからね。満塁で三振とりなさいという場面では、シュートでバットを折ってもボールは前に飛ばされるからミスが起きる可能性はあるよね。でも、ランナー一塁であればゲッツーはとれる可能性が高くなる。俺はセットアッパーが合っていたんだよ。当てているイメージがあるけど、年間デッドボールは6、7ぐらいで、シュートでは1、2つくらいよ。まあ、気に入らないやつは狙ったけどね」

盛田は、52試合に登板し、14勝6敗2セーブ、投球回数131回3分の2、防御率2.05で最優秀防御率のタイトルを獲得した。