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江戸時代のエリートを育成した「驚きの教育システム」

勇猛果敢な武士が育つわけだ

江戸の知識エリートの実態

江戸時代に日本を訪れた西洋人が異口同音に語っているのが、日本人の教育水準の高さだった。当時、世界的に見ても、一般庶民までが文字を読み書きできる民族は日本くらいしかしかなかったという。庶民がそうなのだから、当時の知識エリートである武士にいたってはなおさらだ。

それを物語るエピソードを紹介しよう。

黒船艦隊を率いて浦賀に来航したペリー提督は、幕府に強く開国を求め、ついに翌嘉永七年(1854)に日米和親条約を締結して日本を強引に開国させた。このときペリーは幕府に、電信機や武器、そして蒸気機関車の模型などを贈っている。

模型といっても、今知られている鉄道模型とはかなり違う。時速30キロ以上のスピードで走る精巧なものであり、実際にレールを敷いて実演させている。ペリーの目的は、こうしたデモンストレーションを通じて日本人に文明の利器を見せつけて、日本が国際社会から取り残されている現実を思い知らせようとしたのだ。

 

たしかにペリーの思惑はあたり、当時の武士たちは西洋文化に驚いたが、決してそれによって意気消沈したわけではない。なんと、幕府がペリーの蒸気機関車をプレゼントされてからたった一年後、佐賀藩が独力で蒸気機関車の模型を完成させてしまっているのである。

それだけではない。実用に足る蒸気船までつくってしまったのだ。しかも、これは、佐賀藩だけではなく、いくつもの藩で、蒸気船が作製されている。

つまり、短期間でたちまち西洋の技術を模倣できるだけの技術力を、当時の武士たちは持っていたのである。

こうした知的水準の高さについては、ペリーたちも認識したようで、「もし日本が開国して国際社会に参加したら、アメリカの強力な競争者になるだろう」と述べている。

いずれにせよ、簡単に西洋技術を模倣できたのは、日本人、とくに支配者たる武士たちの教育程度が極めて高かったからだといえる。

そこで今回は、江戸時代の武士の教育について語っていこうと思う。

薩摩武士はこう育てる

不思議なことに徳川家による中央集権が基本の江戸幕府だが、こと各藩の教育には口を挟まなかった。だから藩によって教育の方針や内容は大きく異なり、その状態が250年以上も続いたことによって、藩独自の士風というものが確立されていった。そしてそれは、近代になってからも県民性として反映されていることが少なくない。

また、武士の教育というと、藩校が担ったと思われがちだが、それは正しくない。江戸中期まで、ほとんど藩校は設置されていない。

寛政年間(18世紀末)にようやく数を増やし、一般的になるのは天保年間(19世紀前半)になってからのことだ。それまでの武士の子弟教育は、家庭では親族がにない、外では近隣の子たちで共同体をつくって先輩に指導を仰ぐかたちがとられていた。

江戸時代、武士の鑑のように、その士風を讃えられた藩に、薩摩藩と会津藩がある。そんな両藩の教育について簡単に紹介しよう。

薩摩武士の勇猛さは、「郷中」によって練り上げられたといわれる。近隣の少年たちが郷中と称する集団をつくって、研鑽し合うのである。

薩摩では6~10歳頃までを小稚児、11歳~15歳頃までを長稚児、15歳~25歳頃(妻帯前)までを二才と呼び、それぞれが同年齢集団をつくり、小稚児集団は長稚児に、長稚児集団は二才に指導を仰いだ。

稚児の一般的な一日を追ってみよう。朝6時ごろ、二才の屋敷へ出向いて四書五経(中国の古典)などを学び、午前8時ごろから路上や広場で相撲や戦ごっこなどで体をきたえ、午前10時ごろに小稚児は長稚児から今朝学んだことを反復させられる。

できないと叱責されたり折檻をうけた。昼から午後4時ごろまでは遊戯の時間、ただし、個人行動は許されない。その後は二才から2時間ほどみっちり武術を教わり、修練を終えると、小稚児は一切の外出を禁じられた。

いっぽう長稚児は、二才から夜話というかたちで武士の在り方を教わり、午後8時ごろにようやく一日の日課を終えた。現在の受験勉強と比べてもかなりのハードスケジュールだ。

郷中で重視されたのは、知識の修得ではない。仲間の団結、長幼順の遵守、武芸の上達、命を捨てる覚悟、そして人間としての潔さであった。こうした毎日をおくることで、主君の命に絶対的に服従する剽悍な薩摩隼人が完成したのである。