「キムタクは何を演じてもキムタク」はとんでもない誤解だ

その繊細な演技に気づいていますか
太田 省一 プロフィール

だがそれは、木村拓哉が演じてきた武士役の文脈では必ずしも弱点ではない。

『宮本武蔵』の武蔵は、お通という護りたい存在に出会い、ただひたすら剣の道で強くあろうとして果し合いを続けてきた自分の生き方に疑問を抱く。

そして最終的に、自分の“弱さ”を受け入れることが真の強さに通じると思いいたる。

同じことは、島崎をはじめとした身辺警護課のメンバーたちにも当てはまるだろう。

では赤穂浪士のように武器を使った仇討ちはできない彼らは、どうやって大きな組織である警察や国家に立ち向かうのか? それが最終回の大きな見どころとなるに違いない。

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俳優・木村拓哉はどこへ向かうのか

ところで、これから俳優・木村拓哉はどこへ向かうのか? 

木村拓哉は常々、役と本人を分けて考えることに懐疑的だ。

「作品に入るとき『役をつくっていこう』とは思わない」。なぜなら、「キャラクターになるのはその人自身。そこでは、その人間のボキャブラリーやパーソナルな部分がすごく反映されていると思う」からである(木村拓哉『開放区2』)。

この考え方は、「キムタクは何を演じてもキムタク」という誤解を生んだもうひとつの、より根本的な要因でもあるだろう。

確かに役と本人を切り離さない考え方は、一見わかりにくい。しかし、それこそが彼自身の考える〈演技〉なのだ。

そうだとすれば、彼が「受け」の演技で発揮する繊細さも木村拓哉という人間のなかにある部分の反映ということになるだろう。

 

先ほどふれたように、『BG』でもその部分はなんら変わっていないことを、私たちは「島崎章」という役柄を通じて感じ取ることができる。

ただ『BG』では、「俳優=人間」としての木村拓哉の変化も垣間見える。

たとえば、先ほどふれた高梨との対立の場面でも、これまでであればそのポジションは、『忠臣蔵1/47』の堀部安兵衛のように木村拓哉のものだったはずだ。

だが今回の彼は、組織を存続させようとする側に立つ。そこには、「俳優=人間」としての木村拓哉の成熟の兆しが見える。

その意味でも、『BG』は重要な作品になったと言えるだろう。