裁判員制度はやっぱり裁判官の「責任逃れ」が目的だった

建て前を信じてはいけません
岩瀬 達哉

人の思いは複雑で、一面的な考察では到底とらえきれない。矢口の「目的意識」もまた、複合的であった。

「誤判の際の、責任転嫁もあるでしょうが、もうひとつ、矢口さんのコンプレックスが陪審制度を唱えさせ、それが叶わないとなると裁判員制度に乗り換えたんだと思いますね」

動き出した改革

こう前置きして語るのは、前出とは別の、矢口をよく知る元裁判官だ。

「矢口さんは、マスコミに弱い人でした。法廷での写真撮影を一定程度認めて記者の受けをよくする。人気取りというか、世論に迎合するというか。そういう傾向が若い頃から強い人でしたね。

その理由のひとつは、裁判実務をやっていない負い目だと思います。司法行政をやって長官になったものの、司法行政しか誇れるものがない。

後世に残せる実績というものがないので、裁判員制度の導入を考えたのでしょう。でないと、長官になった意味を見出せなくなる」

ただ、矢口の長官時代に裁判員制度は実現しなかった。ようやく導入されたのは、定年退官から19年後、2009年5月である。

この間、立ち消えることなく「裁判員制度」が議論の俎上に載り続けたのは、矢口とは浅からぬ因縁のあった元裁判官で弁護士の宮本康昭が、日弁連の委員としてそのバトンを引き継いだからだった。

静かな口調で、宮本は語りはじめた。

「長官時代の矢口さんが、『陪審制』を提唱しだした時の発言を聞いていて、いまが改革のチャンスだと思ったんですね。そうこうするうち、日弁連会長に立候補した中坊公平さんから、司法改革についての助言を求められた。

私の再任拒否も含め、『司法の危機』と言われた時代に、裁判所の諸悪の根源が司法官僚制にある、と気づかされて以来、司法官僚制を壊さなければダメだというのが、私にはありましたから。二つ返事で引き受けた」

1960年代後半から1970年代はじめにかけ、裁判所が左傾化しているとして、政府与党が「司法の危機」と名付けた時代があった。その渦中の1971年4月、「再任拒否」となった宮本は、最高裁人事局長だった矢口と対面している。

裁判官は10年に一度、最高裁によってその適格性が審査される。「不適格」とされると裁判官としての再任を拒否され、自動的に裁判官資格を失う。

当時、35歳の判事補だった宮本が「不適格」とされたのは、「平賀書簡」流出事件のスケープゴートにされたからだった。

「70年安保」の前々年、自衛隊の「長沼ナイキ基地」の建設計画に関する行政訴訟で、国の方針を尊重して住民側の訴えを退けるよう、札幌地裁の平賀健太所長が担当裁判長に「書簡」で示唆。

その書簡が、マスコミ各社に流出したことで、「不当な裁判干渉」との非難が沸き起こり、社会を揺るがす大事件に発展している。

おかげで、行政訴訟の裁判も長引き、基地建設に大幅な遅れが出た。政府自民党はいきり立ち、それを静めるには「書簡を流出させた犯人」の首を差し出す必要があった。

しかし最高裁の調査でも犯人を特定できなかったため、青年法律家協会裁判官部会のアクティブ・メンバーだった宮本を「犯人」に仕立て上げ、理由を告げることなく「再任拒否」としたのである。

 

再任拒否によって裁判所を追われて19年後、歴史の巡り合わせによって宮本は、矢口と立場や方針の違いはあったものの「司法制度改革」を推進することになった。

宮本に声を掛けた中坊公平は、森永ヒ素ミルク中毒事件で被害者の救済にあたったり、豊田商事事件で同社の破産管財人を務めるなど、消費者問題を弁護活動のフィールドとしてきた。

日弁連の会長選挙に立候補するにあたって、公約のひとつに「司法制度改革」をかかげたものの予備知識はなく、当選後、あわてて「改革プラン」を作らねばならなかった。

宮本は言う。

「中坊さんは、私が20年近く一貫して『司法官僚制』の改革を唱えていたことに親和性を感じたようで、司法改革の課題と組織の構想を設計しろと、日弁連のなかに『司法改革に関する組織体制等検討委員会』を作って、私を委員長に指名した。で、半年ほどでプランをまとめあげた」

並行して宮本と若手メンバーは、中坊に陪審制度の仕組みや「法曹一元」で目指すべき方向などの基本知識を、週1回ペースでハードなレクチャーを行っている。

いわば、中坊が機関車で、宮本が機関士というコンビの誕生であった。

中坊は、2年の会長任期を終えると今度は、あらたに「司法制度改革推進本部」を立ち上げ、自ら本部長代行に就任すると、宮本を事務局長に指名。「司法制度全体構想」を公表し、改革の必要性を社会にアピールし続けた。

当時を懐かしみながら、宮本は言った。

「これに、まず、財界が反応するんです。経済同友会が発行した『現代日本社会の病理と処方』という報告書に、司法改革の必要性がはじめて書かれた。それに影響を受けた経団連も、司法改革を唱えだす。そうなると自民党も動かざるをえなくなったというわけです」

1999年7月、小渕恵三内閣が「21世紀の司法制度」を検討するための「司法制度改革審議会」を設置すると、中坊は同審議会の委員に就任。また翌年には、内閣特別顧問を引き受けている。