西武新宿線のイメージを決定づけた
少年時代、「農場通い」の思い出

鉄道とビジネス vol.3

 また、引き合いに出してしまって申しわけないのだけれど、原武史さんは、東急線が嫌いだという。

 その嫌悪の根本には、根っからの企業人として民間の力で新しい鉄道文化を作りあげた小林一三のアイデアを、農商務省・鉄道院の官僚あがりの五島慶太が模倣し、さらにその実現に際して官界のネットワークを駆使した、といったような事態があるのだろう、と私は考えている。

西武新宿駅本来は国鉄新宿駅に西武鉄道が乗り入れする計画で、仮駅として開業したのが始まり

 たしかに、小林一三は独創的だった。繁華の地を結ぶことが大前提だった鉄道会社経営に、未開の土地に線路を敷くという冒険を敢行した。

 その沿線にモダンな住宅地を造成、販売した。終点にレジャーランドを建設し、閑古鳥の鳴いていた温泉を板で塞ぎ、少女歌劇をはじめた。

 梅田のターミナルの上にデパートを作った。これは当時、世界中だれも思いつかなかったアイデアであり、日本の百貨店経営が鉄道事業と密接な関係を結ぶようになった端緒である。

 民間の力で都市を、鉄道を、市民生活を革新した小林一三の構想を、厚顔に模倣した東急と五島にたいして、原さんが怒りを抱え続けるのは、その鉄道への愛を考えれば、当然かもしれない。

南武線の大論文を書いた「伝説の中学生」

 とはいえ、愚考するに個人的な感情もあるのではないか。私は原さんと同じ高校、日吉の慶応高校に通っていたので、その辺で忖度できる事がないではない。

 原さんは、同じく日吉の、東急の駅をはさんで反対側にある慶応の普通部から、高校へと進学した。私はこぢんまりした、女子大学の附属中学から、同じく慶応高校に進学した。一年違いである。ただし、一学年が八百人強というマンモス高校なので、面識はまったくなかった。

 同じ慶応といっても、学校の雰囲気はまったく違う。普通部は慶応のなかでも、かなり厳しい。中学生なのに成績不良だと、容赦なく落第させる。勉強の水準も高い。

 その普通部で、原さんは伝説的な生徒だった。夏休み後に開催される「労作展」に、南武線の歴史を俯瞰する大論文を執筆し、発表したのである。中学生ながら国鉄本部に押しかけ、資料を要求したというのだから、流石である。

 私などとは桁が違う。私の息子の世代まで、その神話は語りつがれ、鉄道マニアである息子は、どうやら父親より原さんの方を尊敬している形跡がある。怪しからんが仕方がない。

 ところが知的にスパルタンな普通部と、慶応高校の風土はまったく違う。慶応高校の風土は、享楽的であり、ホームルームは、週に一度だけ、掃除もしないでいい。クラスの団結など欠片もない、自由放任の最たるものであった。

 もちろんスポーツに精を出す者もいる。勉強に励む者もいる。医学部志望者は、かなりの狭き門なので受験と同様か、それ以上の努力が求められる。

 私の場合は、本と映画にほぼ全精力を費やした。サボりにサボっても、そこそこにやれば卒業できた。志望していた文学部は、高校さえ出ていれば入れるところだったので、いくらでも映画を見る事ができた。まだ、ビデオがない時代だから、映画を見まくるのにはかなりの時間と労力―移動と調査―が、必要だった。

 けれど、原さんは真面目な人だから享楽的な高校の雰囲気が我慢ならなかったのだろう。鉄道研究会では旺盛に活動していたらしいけれど。とはいえ、原さんが取り組む近現代史については、慶応の文学部はお粗末ともいえないほどの陣容も備えていなかったわけだから、キャンパスの雰囲気うんぬん以前の問題だったのかもしれないけれど。

   ∴

 私が、日常的に私鉄に乗るようになったのは、高校に入ってからだった。小学校、中学校と大塚二丁目にある大学の附属に通っていたのだけれど、田端から大塚まで山手線で行き、大塚からは都電、都電がなくなってからは都バスというパターンで通っていたので私鉄とは無縁だった。

 ただ、唯一の機会は、「郊外園」という農場に行く時だった。戦時中、集団疎開をするために整備されたという農場なのだが、小学一年生から、中学三年生まで、日程をずらしつつ、毎月一回行くのである。農場は小平の先の萩山にある。つまり毎月一度は西武新宿線に乗るのであった。

 郊外園行きが、生徒たちの怨嗟の的であったかどうかは解らない。でも、西武新宿の駅での集合は面倒だったし―今から考えれば、高田馬場駅で集合なんかしたら、通勤客の迷惑になると学校側が配慮したのだろう―、萩山は遠いし(行きも帰りも鈍行だった)、鍬は重く、土は鬱陶しかった。

 一番、鬱陶しいのは収穫の時であった。

 疎開児童の苦労を体験させるという意図だったのか、あるいは育てて収穫する喜びを教えたかったのか、その両方なのかは解らないのだが、馬鈴薯も薩摩芋も、繁殖力を重点に置いたとしか思えないほど沢山とれるのだが、味はかなり厳しかった。

 収穫をして喜ぶのは、せいぜい小学校二年生までで、高学年になると出来るだけ少なくもって帰るように班のなかでの押しつけ合いがはじまり、中学生になると、一度収穫した芋をそのまままた埋め戻すなどの行為が頻発し、埋め損ねた奴が高田馬場―帰路は都合のいい駅で降りていいことになっていた―のホームのゴミ箱にジャガイモを捨てる、などという狼藉が発生したのである。

 芋を掘らされたためもあるだろうが、西武新宿線にはよい感情を抱いていない。

 私はその小学校でただ一人の下町出身で―実際には赤羽にも一人男子生徒がいたのだが、彼は早々に目白に引っ越した―、往路も帰路も大塚から先は一人だった。他の友人たちは、新宿、渋谷方面に進むのである。

 池袋経由で通学している級友には、西武池袋線沿線に住んでいるのが多かった。

 江古田や豊島園の住宅地に何度か招かれたけれど、昼日中から操車場勤務の終わった鉄道員たちが、赤い顔をして暴れている家の近くに比べると、あまりにきちんとした、整った住宅街なのでびっくりした。今、再訪したら、どう思うかは解らないけれど。

 小学校、中学校を通じて一番仲が良かった友達は、東久留米に住んでいた。田端から東久留米まで、何度も行った。新しいピカピカの団地だった。まだ、牛飼い農家があった。

 『滝山コミューン一九七四』を読んで、原さんもその近くに居た事を知った。

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