この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる「福島の未来」

復興の成果を自画自賛しているが…
山下 祐介 プロフィール

政府はもう、原発事故を起こした国の責任というものを感じなくなっているのではないか。いやそれだけではない。もしかすると、もう一度同じような事故を起こす可能性についても。

原発事故を起こしてはいけない。人々を被ばくさせてはいけない。危険にさらしてはいけない。そういう当たり前の感覚が、政治の中で風化し、失われつつあるのではないか。

むしろ「なんだ、原発事故といってもこの程度ではないか」「被害といったってこれくらいじゃないか」「原発のリスクなどたいしたものではない」――そんな奢った感覚が、この国の中に頭をもたげはじめているような気がしてならない。

いや、原発事故に限ったことではない。

貧しさで苦しむ人を作ってはいけない。不当な差別が生まれる環境を作ってはいけない。人々の税金を大切に生かし、適切な政策を立案していかなければならない。この国の安定と持続を、確実にしっかりとはかっていかねばならない。

――そういう政治を担うにあたっての当たり前の責任感覚が、だんだんと現場の中から失われはじめているのではないか。

そうした政治の変質が、矛盾だらけのおかしな復興政策を生んでいる根本にある気がしてならない。

〔PHOTO〕gettyimages

なお私はここでいう「国の責任の風化」を、誰か特定の政治家や、特定の政党に結びつけて考えているのではない。いずれ詳しく論を展開したいと思うが、このことだけは最後に簡単に述べておきたい。

こうした「国の責任」の変化は、もとをたどればどうも「二大政党制」と「政治主導」ではじまったものだ。

2000年代前後にこの国が制度設計しようとした「政治主導」には、何か根本的な欠陥があったようなのだ。

そしてそれが民主党政権、自民党政権へと展開し、その間に国政選挙を何度か繰り返していく中で、次第に手もつけられないほどに拡大して、政治総体として「無責任」な状況が生まれつつあるのではないかと考えている。

さらにその中で、巨大化していく政治権力に取り入ろうとして様々な欲望が侵入しはじめ、堂々とした二枚舌や、本来やるべきことを避けながら、本来やれるはずのないこと、やるべきでないことを政治・政策の中に織り込む動きが止められないものになってしまったのだろう。

だからなのだろう。原発復興政策がおかしくなったのと軌を一にして、各方面で(各省庁で)も、似たような感じでおかしなことが起きるようになってきた。

 

そして平成30年に入ってからも、働き方改革法案でその根拠となる厚労省のデータ改ざんが見つかり、そして森友問題では財務省の公文書書き換え問題までもが噴出している。

こうしたおかしな政治・行政は、その根底にある構造が変わらない限り、止まることなくつづいていくものと私は見る。

これはいったいどのようにすれば止めることができるのだろうか。

むろん私にもその解は見えない。

が、ともかくも、事象をいくつも観察しながら、その正体を探っていくことが必要なのだろう。それゆえさらに、復興問題を離れて、全く別の角度からもこのことについて考える機会を持ちたいと思っている。