今まで経験したことがない長く大きな揺れ。
町役場にいた佐藤さんは地震が収まったのを見計らい、まずはすぐ戸籍システムの電源を落とした。そして急いで戸籍関連の書類を保管していた頑丈な金庫に鍵をかけた。
「職員は防災対策庁舎に避難するように」との指示があり、戸籍住民係3人で防災対策庁舎2階の危機管理室に避難した。危機管理室には戸籍のサーバーがあった。
そこから佐藤さんを含む職員の幾人かは付近の高台にて避難民の誘導にあたることになった。
移動のため防災対策庁舎の階段を降りる際、「万が一のことがある。一旦本庁舎に戻ってバックアップテープと戸籍届出書を持っていくべきではないか」との思いが頭をかすめる。
「戻って取ってくるから」
その声に、上司である課長は避難誘導を優先するべき、との判断を下す。佐藤さんは迷いながらもそれに従った。
佐藤さんの頭には「戸籍法の規則で戸籍簿等は庁舎外に持ち出し禁止」ということも頭にあったからだ。
「事変」の時は持ち出して良いとされていたが、この地震が「事変」に当たるかは自己判断できなかった。
昭和35年のチリ地震津波の際にも戸籍簿は水を被ったけれども流失することはなかったので、防災対策庁舎のサーバーまで消滅するとは、誰も考えていなかったのだ。
防災対策庁舎から北西に500メートルほど離れた小高い丘の上にあったデイサービスセンターに向かい、誘導を開始。たまたまそこでデイケアを受けていた母親を車に乗せて町の中心部から北西に4キロ程山間部に位置している自宅に戻ることとなった。
町内には南三陸町危機管理課の遠藤未希さんの防災無線の声が何度も鳴り響いていたが、佐藤さんが自宅に着くとその声が止んだ。
津波が防災庁舎を飲み込み、佐藤さんが先ほどまでいた、町指定の避難所になっていたデイサービスセンターや同じ敷地内にあった特別養護老人ホームの一階天井まで津波が襲来し、多くの人が犠牲になったのだった。