今年もまた3月11日がやってくる。
あの日、大事な命とともに、津波被害が最も深刻だった南三陸町、女川町、大槌町、陸前高田市の4市町では、住民の「自分の証明」たる「戸籍」の正本が流され、全てが失われた。
「戸籍がない」とは、死者を死者として届けることも、出生も婚姻、離婚も含めて身分関係登録の一切ができないということだ。
誕生日や自分の父母が誰なのかも、何らかの客観的証拠がなければ公証に至らず、戸籍再生の道は厳しく制限される。
今日に至る近代戸籍制度は明治時代に確立したものだが、過去において大量に戸籍が滅失するという事態がなかったわけではない。
第二次世界大戦時、焦土と化した沖縄では八重山諸島他を除き、ほぼ全住民の戸籍が焼失した。
また、戦前は日本領だった南樺太に本籍を置いていた人々は国境線の変更で本籍地を失い、戦後引き揚げ者もサハリン残留者も戸籍の再生や証明には相当な苦労を強いられた。
しかし、技術革新や情報化も進んだ現代の日本において、地震と津波という災害が大量の無戸籍者を発生させるとは、まさに想定外だったとも言える。
この「国家的危機」の瀬戸際を現場にいた人々はどう乗り越えたのか。そして今、この教訓はどう生かされているのかを、南三陸町を例にみていきたい。
南三陸町は宮城県北東部に位置し、東は太平洋、三方を標高300メートルから500メートルの山に囲まれた地域は南三陸金華山国定公園に指定され、リアス式海岸が生み出す景観は息を飲むほど美しい。
「南三陸町」という町名は、仙台市出身者の筆者はじめ宮城県関係者にとってはそうなじみのあるものではない。
震災に遡ること6年前の2005年(平成17年)10月、「平成の大合併」により本吉郡志津川町、歌津町が合併して誕生した新しい町なのである。
実は、この「平成の大合併」と前後して、戸籍業務には変革の波が来ていた。戸籍の電算化、コンピュータ化である。
南三陸町の戸籍担当者として震災を経験した佐藤文子さんは、旧志津川町の職員として、戸籍窓口の経験も経ながら2002年(平成14年)から本格的に戸籍業務の担当となり、この間の変化を身をもって体験していたひとりである。
戸籍担当となった当初、戸籍に記す一文字一文字を和文タイプライターで打つことに神経をすり減らし、なんとか慣れた頃に戸籍の電算化が始まった。そ
して大量の戸籍訂正や移行期の諸手続きにようやく目処が着いた矢先に、今度は旧歌津町との合併。
戸籍業務はそれぞれの市町村で管理をしているため、電算化の速度も違えば、システム統合をする場合は文字の同定等、それこそ大変な作業が待っていた。
それも一段落したころ、2011年3月11日がやってくる。