宝探しと聞いて張り切ったものの、宝物は、発掘されるために埋められた景品に過ぎなかったし、冒険は、捏造された贋物の遊戯でしかなかった。それなのに、決して参加を免れない宝探しという古典的な物語について、前回から検証を続けている。
⇒第1回【社会にはびこる「遊戯の構造」を検証すべき時がきた】
如何わしい遊戯は、前回想起したデパートの催事会場に限らず、社会の広範囲にて演じられている。例えば、経済活動への資本供給を担う金融市場においても、遊戯は繰り返されているのだ。
金融産業に従事したかつての日常を思い返すと、つねに足元をぐらつかせていた、一種の振動が想起される
さしあたり静かな日でも微震は続いているし、企業の決算、ニュースの見出し、統計データが液晶画面を滑り落ち、速報値が確定値に変わり、確定値がさらに訂正される頃には次の速報値が発表されるのだから、おそらく何らかの意味を含有している言葉と数字の一群が、ひときわ大きな振動を起こしても、それが新しい揺れなのか、あるいは以前から続く余震なのか、断じることはできない。
ただ一つ、市場参加者にできることと言えば、絶え間ない振動に熟睡と覚醒のいずれをも禁じられ、すっかり疲弊した重い体を今一度持ち上げて、未来の予測と現在の解析に果たしてどこまで執着できるのか、あてもなく自問してみるだけだ。
そんな時、どこかで誰かが呟く一つの言葉が、前触れもなく市場に散布して、参加者たちを安堵させる。
厳密には二語から成る「利益確定」というその言葉が、彼らに束の間の安心をもたらすのは、決して「利益」の二文字が召喚されるからではない。利益などこれまでも享受してきたし、今後も多かれ少なかれ遭遇する機会があるだろうと、誰もが高を括っている。
そうではなく、まるであたりの振動を停止させ、氾濫する言葉と数字を凝固させてみせると言わんばかりに、頼もしい表情を纏う「確定」の二文字が、揺れに疲弊しきった者たちに安らぎを期待させるのだ。
記憶の限り揺れが続く市場のどこかで、本当に何かが確定したのなら、それは驚くべきことではないか。振動から隔離された陸地があるというなら、いつか自分も、その雄大な大地を踏みしめることが許されるのではないか。
そう期待を寄せて、しかし彼らは、即座に思い直すだろう。
市場で何かが確定した試しなど一度としてなかったし、今でも足元の振動が収まりうるとはとても信じがたい。「利益確定」の一語を自ら呟いてみても、やはりそれは空虚な記号に過ぎなかったと、早々に諦めるしかないのだ。