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世の中で面白いものは、全て澁澤龍彦から学んだ

萩原朔美「人生最高の10冊」

寺山修司が求めたリアリズム

まず、私自身が俳優として出演し、演劇人としてのスタートを切った作品として、寺山修司さんの『青森県のせむし男』を挙げたいと思います。

寺山さんは演劇実験室・天井桟敷を作りましたが、その大きな特徴は、身体性を重視していること。『せむし男』と同時期の戯曲『大山デブコの犯罪』では実際に太った女性が出てきますし、本作の場合もフリークのような男性が出てくる。

個性的な人物とぴったり重なるような身体表現を採用し、身体によってその人物の人生を雄弁に語る。それこそが寺山流のリアリズムでした。

出版されたシナリオを読んで初めてわかることもあります。話の最後にねずみが出てきて、せむし男の体をかけあがるという記述があるんですが、演出の問題で、結局芝居ではできなかった。後年の『身毒丸』では、へび女が体に巻きつけているという設定で、本物の大蛇を出したりもしました。

 

寺山さんは天井桟敷創設時に「見世物の復権」という言葉を掲げていました。一つひとつの作品が、まさに「見世物」の魅力にあふれていたんです。

寺山さんと同世代で、同じく日本を代表する劇作家が清水邦夫さんです。清水さんは「家」をめぐる話が多い。

エレジー』では老年の男性が、亡くなった息子の嫁に家を贈与しようとするんですが、ローンの問題などで、一筋縄ではいかない。嫁は女優で、強い自我を持った人物。主人公もまた頑固な性格です。他人からは二人の折り合いは悪いように思えますが、対話を続ける過程で、少しずつ心が通じあったりもして、その関係性の揺らぎが興味深い。

私は長年、多摩美術大学で教鞭をとっていたんですが、教師としてどうあるべきかを考えさせられたのが、『先生とわたし』ですね。

四方田犬彦さんと、「伝説の知性」と呼ばれる師・由良君美さんの師弟関係を綴った評論です。

教育とは何か、教える立場、教えられる立場である師弟とはどのような関係性であるべきか、といった問いが迫ってきます。

二人の20年近くに及ぶ交流の中で、最初は良好だった関係性が次第に破綻していきます。

作中では師に対する四方田さんの愛情だけではなく、強い憎しみも感じられます。でも、こうして本にするということは、師に対する強い思い入れがなければできないことでもあります。

良い教師は良くも悪くも、教え子の心に火をつけることができる。私自身もそんな教師でありたいと、改めて感じさせられました。

言葉は自分の外側にある

世の中で面白いものは、全て澁澤龍彦から学んだ気がします。『高丘親王航海記』はその澁澤さんの遺作となった小説です。

小説だけではなく、文学や絵画、映画などの評論でも幅広く活躍をされた澁澤さんの著作からは世界中の様々な芸術作品を学びました。澁澤さんの軸となるキーワードは、「幻想」です。人間はどこまで想像力を広げることができるか、といったテーマが澁澤さんの作品にはあります。

『高丘親王航海記』は平安時代に実在した皇族・高丘親王を主人公にして、彼が天竺を目指して旅をする過程を描いた話。ただ、結局天竺に行くことはできなくて、自分の体を虎に食べさせるという結末になる。

これはひとつの隠喩になっていて、理想のユートピアなどは幻想に過ぎない、ということを示しています。

しかし、幻想にも確かな意味があるということもこの作品では表現されている。それが最も感じられるのは、「真珠」という章。主人公が真珠を飲み込んで、かすれた声しか出せなくなってしまうんですが、実際に、当時の澁澤さんは咽頭がんで死の淵にあり、声帯を切除していたんですね。澁澤さんは声を失った事実を、作品に昇華し、幻想の海に流しているんです。

自分のことを作品の素材にするのは作家として珍しくはありませんが、澁澤さんは表現が美しくて、執筆時に病床にあったということも信じられない。「私」のことを「私たち」のことに、より普遍的なものに変えることに成功しており、強い感銘を受けました。

これまで様々な本に触れて実感したこととしては、言葉は自分の内側にあるものではなく、外側にあるものだ、ということです。

自分が言葉に出会うことによって、今まで気づかなかった感情が出てくる。つまり、新しい自分へと本が導いてくれて、それこそが読書の醍醐味であると思っています。(取材・文/若林良)

「萩原朔太郎をはじめ、実在した近代日本の詩人たちや史実から着想を得ながらも、次第に現実を離れて、まったく異なった幻想の世界へと読者を誘っていきます。漫画ならではの素晴らしい想像力に惹かれました」