世界的イベントを3月11日に控えた創価学会の「秘史」を明かそう

『人間革命』には書かれていない真実
高橋 篤史 プロフィール

戦前の「特高警察」との接近

まず驚かされるのは、前身の創価教育学会が左翼運動取り締まりに血道を上げていた治安当局と極めて良好な関係にあったという事実である。

創価教育学会は小学校校長を歴任し1928年に日蓮正宗に入信した牧口が、元部下でその後に補習塾経営者に転じた29歳年下の戸田(当時は城外と名乗っていた)と二人三脚で始めたものだ。

今日その創立日は1930年11月18日とされているが、これは牧口による教育書『創価教育学体系』第1巻の発行日を拠り所としている。じつのところ、同書は発行日とされる日にまだこの世に存在していなかった可能性が高いのだが、その頃、創価教育学会は名ばかりで組織としては無きに等しかった。

その後、牧口の教育論と日蓮正宗の教えは急速に融合していき、創価教育学会は「教育宗教革命」を掲げ、組織として動きだす。1935年のことだ。

 

活動を支えたのは長野県から上京してきた元小学校教員たちだった。彼らは郷里で左翼運動に身を投じていた1933年、特高警察に検挙され、教職の道を断たれていた。獄中でマルキシズムを捨て転向していた彼らが上京後に再就職先として辿り着いたのが創価教育学会だった。

当時、国がとっていたのは転向政策である。教育水準が高く本来は優秀な若者たちを望ましい思想に転向させ、戦時体制に組み込んでいくわけだ。

そうした中、教育宗教革命論を唱える牧口ら創価教育学会は当局お墨付きの団体として転向者の受け皿となっていた。失意の底にある元教員たちのネットワークは折伏先として格好の相手だった。

牧口らは警視庁特高課やその元締めである内務省警保局、さらには共産党取り締まりに辣腕を揮い転向政策の仕掛け人でもあった大物思想検事ら治安当局と緊密に連絡を取り合っていた。

地方に折伏要員を派遣する際には事前に東京の治安当局に現地での手配を依頼し、その甲斐あって派遣された元教員たちは特高課長や思想検事、視学などから歓待され、大いに折伏の成功が期待されたのである。

牧口らは治安維持法による左翼思想取り締まりを当然のことと考えていた。創価教育学会は「赤化青年の完全転向は如何にして可能なるか」といったパンフレットを発行し、治安当局との蜜月ぶりを会員獲得に向けた宣伝材料とした。

牧口や元教員たちは警視庁特高課員と酒を酌み交わし、長野県特高課員が上京してくると聞けば、当局から立ち寄り先をすぐに教えてもらうこともできた。

そんな体制べったりの創価教育学会が一転して特高警察の弾圧を受けることとなったのは1943年のことだ。ただしそれは創価教育学会が軍部政府に対し反戦・平和を訴えたからではない。日蓮正宗の原理主義的な信仰活動が行き過ぎたからである。

共産党を壊滅させた後、治安当局が重点取り締まり対象としたのは宗教運動だった。

数多くある日蓮系の教団の中でも日蓮正宗は他宗教・他宗派を「邪宗」として認めない原理主義的側面が強いが、中でも創価教育学会はその傾向が強かった。

それは国家神道とて同じで、牧口は会員に対し伊勢神宮の大麻やその他神社の神札を撤去して焼却する「取払え」を行わせていた。この国家神道を蔑ろにする活動が治安維持法違反や不敬罪に問われることとなったのである。その頃、創価教育学会の会員は約1500人を数えていた。

戦後のある時期、牧口の獄死は突然、反戦・平和のシンボリックな出来事に転じた。それは創価学会が路線転換とともに打ち出した一大プロパガンダによるものだったのである。