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世界を動かした人類史上最悪の「偽書」。なぜ人は信じるのか

フェイクニュースは今も昔も…
中川 右介 プロフィール

ショパンのラブレター事件

専門家が騙された例に『ショパンのラブレター』事件がある。

ショパンは『別れの曲』など、多くのピアノ曲を作った19世紀前半の作曲家だ。

「ショパンの恋人」といえば女性作家ジョルジュ・サンドが有名で、彼女との間の手紙は以前から公になっていた。

だが、第二次世界大戦が終わってすぐ、ショパンには隠れた愛人がいた、その2人の間の熱烈なラブレターを持っているという女性が登場し、その手紙の一部が公開された。

すぐに「これはニセモノだ」と言った専門家もいたが、信じた学者もいた。

このラブレターは、いまではフェイクと断定され、「発見者」の女性が作ったものと考えられているが、当人が自殺してしまったので、動機は不明のままだ。

たしかにそのラブレターは、よく出来ている。

内容は、いままでのショパンのイメージを覆すもので、露骨な性的表現もある。

これに騙されたのだ。ショパンのイメージは「繊細で孤独」と定着されているから、それとは異なるショパン像を発表すれば、学者としての名声も上がる。

これはどの分野にも言えることで、そういう土壌があるので、熱心な専門家、研究者ほど、偽書に騙されてしまう。

 

米ソ冷戦の火種に

ショパンのラブレター事件は、世間を騒がせたといっても、ショパン研究者の間での出来事で、「世界を動かした」まではいかない。

音楽関係でかなり「世界を動かした」ものとして、『ショスタコーヴィチの証言』がある。

ショスタコーヴィチは、ソ連を代表する作曲家だ。帝政時代の1906年に生まれ、11歳の1917年にロシア革命を経験し、以後、ずっとソ連で生きて、1975年に亡くなった。

ショスタコーヴィチショスタコーヴィチ。1954年〔PHOTO〕gettyimages

1979年に、「死後発表することを条件に、ショスタコーヴィチが生涯を回想したもの」として、アメリカで刊行されたのが『ショスタコーヴィチの証言』である。

ソロモン・ヴォルコフというソ連の音楽学者が、ショスタコーヴィチから聞いた話を文章にし、それをショスタコーヴィチが承認したものだという。

ヴォルコフはその原稿を持って西側へ亡命し、アメリカで出版されたのだ。

ショスタコーヴィチは共産党にも入党し、議員にもなった人で、ソヴィエト政権に従順な作曲家とのイメージが持たれていた。二度、大きな失脚をしていたのだが、そのたびに復権していた、複雑な人だ。

『証言』はそんな「共産党政権に従順な作曲家」というイメージを覆すもので、辛辣な政権批判があり、衝撃を与えた。

ソ連政府はこの本を反ソ宣伝のために作られた偽書だと批判し、大騒動となった。

書かれている内容については、ショスタコーヴィチが何年にどこで何をしたかといった、出来事の記述部分については、他の資料との整合性があり、「事実」の部分がほとんどだ。

もっとも、そういう資料をもとにして書かれたのだから、事実と同じなのである。

問題はショスタコーヴィチの「内面」、「本心」として書かれている部分で、これはまさに当人しか真偽が分からないことだから、誰にも証明できない。

『証言』で問題となったのは、内容が真実かどうかもさることながら、「ショスタコーヴィチがヴォルコフに話したのは本当なのか」という点と、もし本当にショスタコーヴィチが自叙伝を語り残したとしても、その内容と『証言』として出版されたものとが同じなのか、という点だ。

二つを証明するのは、原稿にあるショスタコーヴィチのサインだけなのだが、原稿の全てのページにサインがあるわけではなく、証拠としては弱い。

ヴォルコフ自身は偽書疑惑について、積極的に反論していない。

彼に限らず、偽書製作者の多くが、「信じたい人だけが信じればいい」という態度で、疑惑を払拭することに積極的ではない。偽書疑惑論争に応じて、議論に乗ってしまえば、偽書だと認定されてしまう可能性があるからだ。

「偽書疑惑がある」と「疑惑」のままにしておけば、「偽書ではない可能性」が残されるので、そのほうがいいのだ。

『ショスタコーヴィチの証言』はクラシック音楽関係の本としては、日本でも異例のベストセラーとなり、それなりに反ソ宣伝としての役割を果たした。