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明治から平成まで、マスメディアは「天皇制」をどう描いてきたのか

いま、新しい局面を迎えている
マスメディアは天皇(制)をどのように描いていったのか? 明治から平成までどんな変化があったのか? 神戸女学院大学准教授で象徴天皇制を研究する河西秀哉氏が考察する。

天皇制とマスメディアの関係性

天皇の退位も、眞子内親王の婚約をめぐる問題も、私たちはマスメディアを通じて知った。現代、象徴天皇制とメディアは切っても切れない関係にあるだろう。

両者は、どのような歴史をたどって、今日のような関係性を築いていったのだろうか。そして、マスメディアは天皇制をどのように描いていったのだろうか。

明治維新後、日本においても新聞が刊行されはじめ、宮内省もメディアに対して便宜を図り、皇室情報を流す仕組みを次第に整えていた。

日清・日露戦後の資本主義化によってマスメディアは急速に発達していくが、同じ時期は嘉仁皇太子(後の大正天皇)の結婚、明治天皇の死去など天皇制をめぐるニュースも多く、新聞はこぞって皇室記事を掲載していった。

マスメディアは大衆消費社会が成立する状況の中で、ニュース素材として皇室を取りあげ、人々の興味関心をかき立てた。

大正天皇〔PHOTO〕gettyimages

しかし戦前は、今日のような天皇制とマスメディアの関係性とは異なっていた。政府・宮内省の下にマスメディアは統制され、そしてその中で報道がなされた。

また、皇室記者たちの扱いも低かった。後に『毎日新聞』の皇室記者として著名となる藤樫準二によれば、戦前の皇室記者は宮内大臣とも正式な会見の機会はなく、ましてや天皇と直接会って話す機会もなかった。

「いくら申しこんでも『ふーん新聞屋か。』といった調子で、秘書官からかるく鼻であしらわれるのが関の山であった」し、記事を書くために門前へ行くと「それさえも”お目ざわり”といったいやな顔つきをされた」という。

藤樫はこうした宮内省の態度を「秘密主義と慇懃無礼な態度にはいささか憎悪さえ感じたほどだ」「”車夫馬丁、ならびに新聞記者”といった思想から、要監視人扱いだった」とまで後に言い切っている(藤樫準二『千代田城』光文社、1958年)。

 

新たな天皇制・天皇像をアピール

その関係性が変わったのは、敗戦後である。

1945年11月8日、宮内省は新聞記者を宮城内に入れ、空襲で被害を受けた様子を見物させた。新聞各紙は翌日の紙面で宮城の荒廃を伝えている。つまり新聞記者が宮城内に入れたのは、こうした宮城の惨状を記事し、人々にアピールさせるためであった。

敗戦は、昭和天皇の戦争責任が追求され、天皇制廃止へと向かう可能性も想定される未曾有の危機であった。それを回避するため、宮内省はメディアを通じて世間に天皇への同情心を集め、責任追求の動きを和らげようとしたのではないだろうか。

これが、敗戦後の天皇制とマスメディアの関係を構築する第一歩となった。