ぼくたちはなぜぼくたちだけなのだろう 第5回:ミッシング・リンク

彼らはなぜ滅んでしまったのか?
川端 裕人 プロフィール

「ピテカントロプス」の予言を追って

デュボアとその発見と時代背景について、彼が出た欧州の文脈で、振り返っておこう。

ウジェーヌ・デュボア(1858-1940)は、オランダの解剖学者・地質学者として知られる。今で言うなら、古人類の研究者ということになるだろうが、当時はそのような分野はなかった。なぜなら、彼以前に、現生人類と明らかに違う古い人類の骨を見つけた例はなかったからだ。

世界で初めてジャワ原人の化石を発掘したウジェーヌ・デュボア(1858~1940)。第4回に掲載したもの

だから、デュボアが当時植民地だった「オランダ領東インド」(インドネシア)にやってきたときの立場は、古人類研究者でも、化石研究者でもなく、軍医だった。

インドネシアに来る前、1886年にはアムステルダム大学で解剖学の講師をしており、脊椎動物の「喉」についての比較解剖学的な研究をきっかけに、次第に人類進化に興味を持つようになった。

ダーウィンが「種の起源」を出版して、進化論(というか、自然選択説)を世に問うたのは、1859年。デュボアが1歳の時である。解剖学講師時代のデュボアはこの説に強く惹かれ、人類とサルとの間にあるミッシング・リンクとなるような化石を探したいと願った。

ミッシング・リンクとは、今風に言うなら「リンク切れ」である。進化が連続的に起きているとして、サルと人間のあいだにあまりにも違いがあるとしたら、その間の「つながり」【リンク】となるような生き物がいたはずだ。その化石が出てくればよい。この場合、サルと人間をつなぐ存在が、「見つかっていないつながり」【ミッシング・リンク】なのである。

なぜか、ミッシング・リング(ring)だと思っている人が結構いるのだけれど(鎖の「輪っか」が失われているようなイメージだろうか)、linkが正しい。

さて、実はデュボアが人類進化に興味を持った時点で、すでにドイツのネアンデル谷の洞窟からネアンデルタール人が見つかっていた(1856年)。しかし、その骨は現代人と近く、サルとヒトの「間」、というふうには見えなかったようだ。

有名な比較解剖学者で、進化論の推進者の一人だったドイツのエルンスト・ヘッケルは、いずれ見つかるであろうミッシング・リンクに「ピテカントロプス」(ピテクス=サル、アントロプス=ヒトからの造語)という名前まで考案していた。

自らそれを見つけたいと願ったデュボアは、1887年、当時の「オランダ領東インド」で、それを見つけられるのではと考えた。サルの中では人間に近い類人猿がいる熱帯が、古代人類の発掘には有望だというのが当時の説だったからだ。インドネシアはまさに類人猿(オランウータンやテナガザル)がいる熱帯で、その条件に合致していた。

まず、オランウータンのいるスマトラ島に赴任して発掘調査を開始するも、古い時代の化石を見つけられなかった。そこで、ジャワ島に転進。現地で聞き込みをして、化石の出そうな場所を絞り込み、とうとう原始的な人類の化石発見に至った。


拡大画像表示トリニールで発掘されたジャワ原人の頭骨の模型(画像提供:国立科学博物館)

デュボアは、発見した頭骨や大腿骨から「ミッシング・リンクを発見した」と確信し、1894年に発表した論文の中で、ピテカントロプス・エレクトスの名を使った。それが現在では、ホモ・エレクトスと名を変えて、タイプ標本(模式標本、基準標本などとも呼ばれる)とされている。

ホモ・エレクトスの分布範囲は非常に広く、ジャワ島の化石人類だけでなく、北京原人やアジアのほかのところで出る原人化石もホモ・エレクトスとされる。デュボアの発見した標本は、それらすべての基準となるものとなっている。

デュボアは1895年にオランダに帰国してから、アムステルダム大学の教授の職を得た。トリニールでの発見で、大いに名を挙げたと思われるかもしれない。しかし、実は、そう単純なことでもなかった。

というのも、持ち帰った標本が本当に「ミッシング・リンク」なのかが論争の的になったからだ。単に類人猿の化石だとする意見も多く、やがてデュボアは心を閉ざし、標本も他人に見せなくなってしまったとか。隠匿した標本を彼がふたたび公開したのは、1923年になってからのことだという。

19世紀から20世紀の変わり目の時期、進化論に対する風当たりは、まだ非常に強かった。「我々の祖先」の問題だからして、単純に考えても「ジンルイのアイデンティティ」にもかかわる。キリスト教の信仰の機微に触れる論争にも発展しかねず(いや実際、容易に発展してしまい)、大変なことになったようなのである。

結局、1920年代後半には北京原人が発見され、1930年代にはジャワ島の別の場所(今は世界遺産になっているサンギラン)から大量にジャワ原人の化石が見つかりはじめ、デュボアの発見は、世界史の教科書に載る「歴史的事実」になった。

それでもデュボアは、あまり人と交わらない静かな晩年を送ったという。(次回に続く)

監修 海部 陽介かいふ ようすけ

人類進化学者 国立科学博物館人類史研究グループ長

1969年東京都生まれ。東京大学理学部卒業、東京大学大学院理学系研究科博士課程中退。理学博士。1995年より国立科学博物館に勤務し、現在は人類史研究グループ長。「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」代表。第9回(平成24年度)日本学術振興会賞。化石などを通して約200万年にわたるアジアの人類史を研究し、ジャワ原人、フローレス原人などの研究で業績をあげてきた。アジアへのホモ・サピエンスの拡散についての、欧米の定説に疑問を抱き、これまでグローバルに結び付けて考えられてこなかった日本の豊富な遺跡資料を再検討。著書『日本人はどこから来たのか?』(文藝春秋)。