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「人間にできてAIにできないこと」がこの本を読んでやっと分かった

人工知能の限界はこれだったのか

そもそも「意味」を理解できるのか

新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』で著者は、巷間に流布しているAI(人工知能)が神になる、AIが人類を滅ぼす、AIが自らの力で人間の知能を超える能力を持つシンギュラリティ(技術的特異点)が来るという言説は、すべて誤りであると退ける。その理由は以下の通りだ。

〈論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです。そして、それが、科学が使える言葉のすべてです。次世代スパコンや量子コンピューターが開発されようとも、非ノイマン型と言おうとも、コンピューターが使えるのは、この3つの言葉だけです。

「真の意味でのAI」とは、人間と同じような知能を持ったAIのことでした。ただし、AIは計算機ですから、数式、つまり数学の言葉に置き換えることのできないことは計算できません。では、私たちの知能の営みは、すべて論理と確率、統計に置き換えることができるでしょうか。残念ですが、そうはならないでしょう〉

論理的にはこの説明で十分であるが、新井氏は、本書の中では大学入試、機械翻訳、自動作曲、画像認識などのメカニズムを具体的に説明することを通じて、AIの効用と限界を明らかにする。

科学を過信せず、科学の限界を謙虚に知ることが重要であると新井氏は繰り返し説いている。本書の行間から優れた知識人の知的誠実さが伝わってくる。

言葉に関する新井氏の認識にも強く共感する。少し長くなるが、ニュアンスを含め伝えたいので、正確に引用する。

〈けれども、誰がどう考えても確率過程だけで成り立っているとは思えないものもあります。それが言葉です。発話には意図があり、それに応じるところには意味の理解があるというのは否定しようのない事実です。

言語コミュニケーションも、互いに言いたいことを言って、理解もせずに満足しているだけだ、結局のところ、猿の毛づくろい(グルーミング)程度のものに過ぎないとうそぶくのは自由ですが、たとえば、今、私が書いている文章が、私と読者との間のグルーミングで意味などないと決めつけるのはさすがに無理です。言葉には明らかに記号の羅列以上の「意味」があります。

ところが「意味」は観測不能です。

そう言うと一部のAI研究者は猛然と反論します。たとえば、「机の上にりんごと鉛筆がある」という文に対して、実際に机の上にりんごと鉛筆がのっている画像を合成できたら、それはAIが文の意味を理解したことになると主張します。

本当にそうでしょうか。では、「太郎は花子が好きだ」はどんな画像にするのでしょう。「本当にそうでしょうか」は? さらに言えば、「『太郎は花子が好きだ』はどんな画像にするのだろう」という文は? 「そんなことは不可能だろう」という文は?

 

人間は身振り手振りや図では表現できないことこそを、言葉や文章で表現しています。この本に書かれていることは、画像にも動画にもできません。キーワードを拾ってもわかりません。速読もできません。読者の方にはお忙しいところ、大変なご苦労をかけて申し訳ありませんが、まさに一文一文読んで、意味を受け止め、今私がお伝えしたいことをご理解していただく以外に方法はありません。

「太郎は花子が好きだ」という文は、まさにそのとおりの意味で、何か他のものに還元することはできません。「花子は太郎に好かれている」と受け身に変換したり、「Taro loves Hanako」と英語に翻訳できたりしたからと言って、意味を理解していることにはなりません。

人間ならば誰もがわかる「そのとおりの意味」をAIに教える道具は、少なくとも数学にはありません。そして、繰り返し申し上げているように、コンピューター上で動くソフトウェアに過ぎないAIは徹頭徹尾数学だけでできているのです〉

「有限は無限を包摂することができない」

スーパーコンピューターの助成金詐欺容疑で去年12月に逮捕、起訴された齊藤元章被告人は、逮捕の1ヵ月前に上梓された書籍でこう述べている。

〈齊藤 ご承知のように、シンギュラリティの信奉者である「シンギュラリタリアン」を自認する私は、もう少しアグレッシブな経過をたどることを想定しています。

井上先生が指摘されているクリエイティヴィティ、マネジメント、ホスピタリティについても、AIが人間の能力に匹敵するようになるのは案外早いのではないかという気がしていますが、これも本当に蓋を開けてみないとわからない部分なので、これから推移を見届けていく必要がありますね。(略)